シェイクスピアの『お気に召すまま』をよく知る人は、あのせりふは、あのシーンどこいったの?と思うかもしれません。この度、私たちは原作に忠実に舞台化することをやめてみました。ですから、これはシェイクスピアからジャンプした初めての作品です。
シェイクスピアの殆どの作品には種本があります。『お気に召すまま』もその例外ではなく、トマス・ロッジの『ロザリンド』という物語を、シェイクスピアは完全に自分のものにしてしまいました。その舞台はフランスとベルギーの国境にあるアルダンヌという所ですが、彼はアルダンヌを自分の故郷アーデンの森のイメージに変えました。アーデンという名は、彼の母の姓でもありましたから、この作品は彼の故郷への郷愁に溢れています。
日本のシェイクスピアのパイオニア坪内逍遥はこう書いています。「彼の喜劇中、かばかり純粋に、楽観的に、暢気に、陽気に、快活に脚色されたるものは他にあらずという點に其特色を存して、彼が作品のもっとも愉快なる喜劇とせらる。」この作品が逍遥に「ともかくユカイだ」と言わせているのは、『から騒ぎ』や『十二夜』に見られる悲劇的な要素が皆無だからです。強烈なドラマはこの喜劇にはなく淡々となだらかです。都会と田舎、自然のやさしさと厳しさといった対比の要素があって、現実からの逃避と理想郷への憧憬の感覚があります。必ずしもユカイなだけではなくて、そこはかとないメランコリーもあります。しかし、一番心に残るのは登場人物たちのユニークな気質とそこを通過して人々の心が癒されていくアーデンの森です。誰かがこの作品の主人公はアーデンの森だと言いましたが、まさにこの森という場にこそこの作品の磁力が宿っていると思います。
東北に暮らす私たちにとってアーデンの森とは一体どこなのか?という問いが、私たちの『お気に召すまま』の初めにありました。答えは気がつけば、温泉場、それも現代のそれではなく、昭和三十年代のあるいは四十年代初期の温泉場でした。アーデンの森がひと昔前の温泉になった訳は、私の子供の頃、体の弱かった祖母に連れられて滞在した鳴子温泉体験にありました。
駅に降りた時の呼び込みの人達の姿、黄昏時の三味線の音ときれいな芸者さんの姿、旅館に行き来するいろんな人の声、早朝の牛乳屋さんのカチャカチャという音、真昼の温泉場の間の抜けたような和らぎと夕暮れの情緒…。
「温泉」という言葉を耳にすると、私たちの誰もが心浮き立ちます。温泉の湯にとっぷりつかって心や体のこわばりをほぐしたいと思います。日常の時間から離れて悠然と温泉場の情緒に浸っていたいと思います。私たちの蛙田温泉は、宿の施設や料理よりも、温泉そのものの質や温泉旅館の人情、風情が大切だった時代の温泉です。そこに、私たちの原作の登場人物を放り込んでみました。ある人は、春野凛にロザリンドを、春野紫折にシーリアを毎日姉妹や清水舞子にフィービやオードリーを思うかもしれませんが、この芝居は結局東北の人間喜劇です。
吉本新喜劇ならぬ東北新喜劇を、という言葉を、このコメディを創りながら思い浮かべました。皆さんにとって、喜劇とは、笑いとはどんなものなのでしょうか?『お気に召すまま』は六つ目の舞台になりますが、これを終えて私たちもやっと小学校卒業だなぁという気持ちです。そして、しばらく冬眠した後に、いよいよ『ハムレット』に挑戦です。皆さんの反応を唯一の鏡としながら、これから私たちの舞台を、ゆたかでふかいものにしていくために、ちからを養って生きたいと思っています。
この舞台の初演はこの脚本のイメージの源泉となった鳴子温泉の、早稲田桟敷湯で行われました。その不思議に魅力的な空間とお客さんの温かい笑顔から、私たちはたくさんのちからをいただきました。今日は街の劇場で、皆さんに今は懐かしい温泉場のぬくもりと、そこにいた人々のいきいきとした命を感じていただければ嬉しく思います。
二〇〇一年
「演出ノート」を書いてから七年と半年の月日が流れました。いろいろなことがありました。そうして思い出したのは、この脚本を書いていたのは、障害を持って生まれた次女が生後一年で重い病気にかかって入院していた大学病院の一室だったということです(私は娘とそこで一年近く暮らしていました)。脚本に入る前に、豆粒のような娘に向って『お気に召すまま』の原文の最初から最後までを英語で朗読したっけということや、治療で苦しそうな娘の背中を撫でながら、空想の温泉旅館の時間の中に逃げるようにして遊んでいたことや・・・ずっと後になって『海を飛ぶ夢』というスペインの映画を見ましたが、四肢の麻痺したラモンが自分の部屋のベッドから窓にジャンプして、大好きな海に飛んでいく自分を想像しているシーンを見たときに、これだ、私にとっての『お気に召すまま』は、『海を飛ぶ夢』だと思いました。それにしても、書きつつどんなに救われ、癒されたことか!豆粒の娘は今元気に小学校に通っています。
下館和巳
役名(ふりがな) | 役柄 | 役者 |
春野凛(はるのりん) | 従姉・冶馬田の娘 | 星奈美 |
春野紫折(はるのしおり) | 従妹・冶留蔵の娘 | 武市奈緒子 |
王蘭土(おおらんど) | 金時商事新入社員 | 長谷川景 |
人乃一(ひとのはじめ) | 金時商事秘書 | 戸田俊也 |
金石試(きんぜきためす) | 金時商事営業部社員 | 塩谷豪 |
毎日湯子(まいにちとうこ) | ストリッパー姉 | 犾守勇 |
毎日泉(まいにちいずみ) 遊佐吟(ゆさぎん) |
ストリッパー妹 なめこ旅館女将 |
石田愛 |
清水舞子(しみずまいこ) 河野やえ(こうのやえ) |
牛乳屋の娘 女中頭 |
村田たいこ |
駐在守(ちゅうざいまもる) | 警察官 | 加藤翼 |
春野冶馬田(はるのやめた) 春野冶留蔵(はるのやるぞう) |
金時商事元社長 金時商事社長 |
岩住浩一 |
島村雪邦(しまむらゆきぐに) | 作家 | ササキけんじ |
フランク小林(こばやし) 昭鉄道和(あきてつみちかず) |
元歌手 駅長 |
両国浩一 |
木村三吉(きむらさんきち) 支配人(しはいにん) |
番頭 | 国井大輔 |
田村駒子(たむらこまこ) | 芸者 | 矢尾坂江梨 |
籾屋千代子(もみやちよこ) 安田伸(やすだしん) |
マッサージ師 金時商事社員 |
長保 めいみ |
春野瀧(はるのたき) 上海一座(しゃんはいいちざ) |
金時商事会長 手品師夫婦 |
山路けいと |
上海一座(しゃんはいいちざ) | 手品師夫婦 | 李暁冬 |
鬼首松雄(おにこうべまつお) | 来々軒店主 | 菅ノ又達 |
鳴子鋤弥(なるこすきや) | 蛙田温泉商会会長 | 皆川洋一 |
チンドン屋 | 手品師夫婦 | まめたろう |
翻訳・脚本 | 下館和巳 |
脚本構想協力 | 丸山修身 |
演出 |
下館和巳 山路けいと |
演出助手 | 岩住浩一 |
ジェネラル・マネージャー | 塩谷豪 |
ステージ・マネージャー | 阿部典子 |
テクニカル・マネージャー | 梶原茂弘 |
音楽・音響 | 橋元成朋 |
照明 |
松崎太郎 佐々木卓真 |
総合美術 | 庄子陽 |
ポスターデザイン |
佐々木正幸 庄子陽 |
フォトグラフ |
斉藤秀一 須藤礼子 |
舞台装置 |
梶原茂弘 千葉安男 菅ノ又達 戸田俊也 李暁冬 長谷川景 国井大輔 |
小道具 |
笹氣健治 加藤翼 長保めいみ |
衣装 |
菅原裕子 鹿戸千恵 星奈美 塩谷豪 石田愛 高橋文 矢尾坂江梨 |
メイク |
村田たいこ 両国浩一 武市奈緒子 |
プログラム編集 |
犾守勇 須藤礼子 武市奈緒子 |
イラスト | 矢尾坂江梨 |
記録 | 須藤礼子 |
協力OB |
佐藤真輝子 田中要子 伊藤真理子 西間木恵 八重樫まち 千坂知晃 磯干健 郷右近由美子 岸典之 |
会場 |
千葉妙子 梶原祥子 名畑目雅子 |
アドバイザー |
松田公江 鹿又正義 |
スーパーバイザー | 大平 常元 |
制作 | シェイクスピア・カンパニー |