「言葉に架ける橋」
奥泉光(第百十回芥川賞作家)
シェークスピア・カンパニーの舞台がいよいよ幕をあけるという。まずは慶賀にたえない。
仙台に拠点を置く同劇団が、英国の古典作品をいかに料理してくれるのか、とりわけ、日本語を母語とする者にとっては異質きわまりないシェークスピアの言葉と、日常の言葉とのあいだに、いかなる橋を渡してくれるのか、大いに興味のあるところである。
二つの言葉を架橋すること。もちろんこれは、それ自体は眠ったテキストに過ぎぬ作品を、生きた場所へ解放するという、演劇なる行為の根本である。とはいえ近代日本の演劇においては、『文学』の権威性に眼を眩まされたあげく、役者の肉体が作品の言葉に拮抗する舞台はきわめて少なかった。むろんアングラ芝居を経過して、かような権威はおおかた破壊された。ただしシェークスピアとなれば話は違う。少数の優れた例外を除いて、いまだにシェークスピアの美しい死体を舞台上に掲示する芝居があまりにも多い。つまり、シェークスピアは、いわば『文学』の最後に残された権威の牙城なのであり、その作品を広くて見晴らしのよい場所へ連れ出すことは、いまなお日本の近代演劇が果たすべき課題なのである。
その意味で、シェークスピア・カンパニーが鉄壁ともいえる作品の砦に素手で取りつき、真正面から克服せんとする勇気は賞賛に値する。方言で台詞を喋る。それぐらいの工夫でうまくいくとは彼らは思っていないだろう。むしろ、シェークスピアの言葉の持つとてつもない強靭さ、容易に歯の立たぬ力、それを深く理解している点にこそ期待の根拠はある。
二つの言葉がすれ違うのではなく、一人の役者の肉体のなかで、ぎしぎしと音をたててぶつかりあう、その一瞬が舞台上に現れるなら、この勇敢な試みは成功だろう。
ベンヴォーリオ | 山路 けいと |
ティボルト | 両国 浩一 |
大 公 | 千坂 知晃 |
モンタギュー | 松 Q |
モンタギュー夫人 | 瀬戸 悠 |
ロミオ | 菅ノ又 達 |
キャピュレット | 犾守 勇 |
パリス | 礒干 健 |
乳母の友 給仕1 |
波間 晶 |
ジュリエット |
星 真輝子 西間木 恵 |
キャピュレット夫人 | 長保 有美 |
乳 母 | 備前 りか |
マキューシオ | 安藤 敏彦 |
ロザライン | 石田 愛 |
ロレンス神父 | 迷 亭 |
バルサザー 給仕2 |
ペギー 森 |
薬 屋 | 真 紅 |
ジョン神父 | 鶴田 浩平 |
翻訳・脚本・演出 | 下館 和巳 |
ジェネラル・マネージャー | 伊東 正道 |
ステージ・マネージャー | 坂本 公江 |
ステージ・マネージャー助手 | 要 トマト |
音 楽 |
高橋 明久 橋元 成朋 |
照 明 | 志賀 眞 |
美 術 | 吉川 由美 |
舞台装置 |
梶原 茂弘 千葉 安男 |
グラフィック・デザイン | 大木 裕 |
フォトグラフ | 中村 ハルコ |
合唱指導 | 文屋 睦子 |
作 詞 | 鹿又 正義 |
庶 務 |
白鳥 佳也子 上杉 美和 |
記 録 | 阿部 文明 |
庶 務 |
平井 淳子 伊藤 美佳 |
経 理 | 藤原 陽子 |
アドバイザー | 大平 常元 |
制作 | シェイクスピア・カンパニー |