ふたりの恋人
更新日:2012.9.7
主宰 下館和巳
最近、グローブ・アカデミアのもとで開かれている<『神曲』を読む会>と<『ロミオとジュリエット』-舞台への一歩->の二つの会に参加している方から、「下館さんのダンテとシェイクスピアの読み方はどうしてこんなに違うんですか?」という質問を受けて、とまどいながらあらためて考えた。どうしてだろう?その時、答えられなかったもどかしさが引きずられてここしばらく、どうしてだろう?と考えていた。そして今朝になって、翻訳と創作の違いと関係があるかもしれない、と思った。
山川丙三郎訳の『神曲』(岩波文庫)を最初に街に出て読み始めたのは1990年3月24日の事だから、今から22年も前の事だ。イタリア文学には全くの門外漢だった私は、難解だが類い希なる正確さをもつ山川訳ダンテにしがみつくようにして予習をしていたものだ。飛ばすことも付け加えることもしないで、書かれた通りのことを理解しようとした。「私の思いや私のセンス」など入り込む余地がないように思われて愚鈍に読んでいた。余計なことを考えずにまるで修行僧のように読んでいた。とても疲れるが、いい気持ちだった。どんな気持ちかと言えば、それは「私」から離れていく快感のようなものだ。
1993年10月30日劇団シェイクスピア・カンパニーが発足。私は翻訳と脚本に七転八倒する。そしてたどり着いたのが原作からの「ジャンプ」だった。なぜか?見る観客は現代人で、イギリスから遠く離れた日本のそれも東北人だからだ。舞台に解説は不要だ。まずはおもしろいか、おもしろくないか、のどちらかだ。原文を丁寧に読む。これはダンテと変わらない。そこからが違う。「私は『ロミオとジュリエット』をこう考える」と勝手な解釈をしてそれをふくらませていく。「私」の世界が追求されて極度に肥大していく。これは疲れない。が、そうし続けていると、「私」が必要とされないダンテが妙に恋しくなってくる。
私にとって、ダンテとシェイクスピアも、決して遠い存在ではない。どうしてもふたり揃っていてもらわなければならない恋人のようなものである。