教えを受けるということ

      更新日:2012.8.10

主宰 下館和巳

 

 

 学校というところで教えを受けるようになってから、ほんとうにたくさんの先生に会ってきた。でも、めぐりあった先生といえば限られてくる。まず、東北学院高校の大木騏一郞先生、そして国際基督教大学の齊藤和明先生。

 私は大木先生から生まれ、斎藤先生に育てられた、と言っても言い過ぎではない。ダンテの『神曲』の三度目の読みに入った。初めて読んだ時が21歳だったから、あれから35年。最初の時も、二度目の読みの時も気づかなかったことがある。「気がつけば人生の道のなかばで暗い森の中に立っていた」ダンテは、前に進もうとするが「飢えた雌の狼」の前で気後れして後退りして去ろうとする。その時、ダンテが「私の源」「父」「師」と呼ぶローマの詩人ヴィルジリオ(『アエネイアス』の著者)に、「畏れるな」と厳しく叱咤される。「畏れるな」つまり「勇気を持て」ということだ。

 学問の世界に入ろうとする時に、いやどんな世界の門の前にたたずんだ時も、私たちは畏れを感じ萎縮する。でも、勇気を出して前に進むことが何より大事だということだろう。勇気がなければ何も始まらない、何も得られない。このことは、ぼんやりとだがわかっていた。がしかし、そう言われたダンテが、ついには「ぴったりとダンテの後ろについていく」という一節が私の胸をついた。「先生について行きなさい。いろいろ聞きたいこともあるだろう。先生への不満もないわけではないだろう。だが、学び初めてこの先生について行こうと決めたからには、覚悟してこの先生に黙ってついて行きなさい。そして謙虚に学びなさい」と、言葉ではなく、ダンテはこの師の後につく弟子の姿を通して、私たちに伝えているような気がしたからだ。