フォトグラファー 中村ハルコ

 

四十九日に

 


下 館 和 巳   

 

 晴子の葬儀の折に、そしてその後さきにたくさんの皆様にお世話になりながら、たくさんの皆様からお花や、電報、お手紙などのお心遣いをいただきながら、御礼の電話やお手紙を差し上げる力もなく、ただただ呆然と暮らして、気がつけばいつの間にか四十九日が過ぎてしまいました。

 今日は、劇団の会報誌の紙面を借りて、皆様からの御好意に「本当に有り難うございました」とお伝えしたいと思います。

 晴子が永久の眠りについたのは、1月27日の午後10時30分でした。場所は、去年の夏に入院中だった晴子が唐突に「マンションからどこか陽当たりのよい、お庭のある一軒家に移れないかしら」と言い出したその日に、偶然借家になった洋館の、大きな暖炉のそばのソファベッドの上でした。

 この家は元々牧師館で、小学生の晴子が友達と英会話を習っていた所らしく、私が「晴子、仙台のイングランドみたいなところが見つかったよ」と伝えると、少女のように喜んでいました。あの時は、「絶対にここで晴子を全快させてみせる」と私は思っていました。しかし、今思えば、ここは晴子が直感的に選んだ終の棲家で、晴子の命をながらえさせることも、救うこともしなかった神様は晴子の願いをせめてここで叶えてあげようと考えて見つけて下さったところかもしれません。

 27日の午後9時頃から一時間近く、意識を失った晴子は涙を流し続け、その涙を七歳の長女宇未がハンカチで一粒一粒丁寧に拭っていました。涙が止まると、晴子は突然「アー、アー、アー」と歌うように声を上げ始め、晴子が最後の息をし終えた直後、宇未は「ママー!」と叫んで、晴子に抱きつくとそのまま気を失って眠ってしまいました。宇未が寝る時間は8時半と決まっていましたから、晴子は宇未の衝撃が眠気でやわらげられるのに丁度よい時を選んだのかもしれません。

 その宇未が母がいなくなってしまったことについて初めて触れたのは、葬儀の次の日の夜のことで、一緒に寝ていた私に「パパ、なっとくのいかないさみしさ」と。私はその大人びた表現に驚きながら「まったくそのとうりだよ」と言うと、「ねえ、パパ、なっとく、ってどういう意味?」と問われて、少しホッとしたような気持ちになりました。宇未の二人の妹はまだ小さすぎて、母がいなくなったことがよくわからないようですが、何かといえば私のところにくっついてきて離れようとしないのは、本能的に何か不安を感じているからかもしれません。

 葬儀が終わってから、近くに一人住まいをしている晴子の母に頼んで、この家に同居していただいていますが、一度脳梗塞で倒れている義母に三人の幼い娘を任せるわけにもいかず、家政婦さんやベビーシッターさんをお願いして生活しています。

 一歳を過ぎたばかりの羽永(はな)は、泣き出すと手に負えず、ある晩あんまり泣き止まずに暴れるので、どうにも情けなくなった私が思わず泣き出すと、ぱっと泣き止んで、私の顔を心配気にのぞいていました。「パパ、そうらがうみの髪の毛ひっぱるの」と宇未が泣きながら訴えれば、創楽(そうら)と羽永はおっかけっこをして最後は必ず喧嘩になり、お風呂も食事もてんやわんやで、私は活字をよむことからも字を書くことからも遠ざかっています。
 夜はこの幼い三人娘と一緒に眠りますが、宇未が決まって「ママのお話」というので、ママの登場する物語を話します。長女が笑うと、次女が笑い、なぜかまだ赤ちゃんの三女も笑い出して夜の闇が一瞬ポワッと暖かくなります。私は、夜仕事をするつもりで添い寝をするのですが、大抵、疲れ果てて娘たちと眠ってしまいます。

 私は家に閉じこもりがちというよりは、殆んどこまごまとした家事と子育てに追われている毎日で、晴子は一人でどんなにか大変だったろうにと、今更ながらかわいそうに思うのです。今もって突然訪れる弔問のお客様が絶えず、遅まきながら初めて晴子のことを知って遠方から駆けつけてくださる晴子の友人達が、祭壇の前で涙を流すのを見るたびに、心の中にようやく沈殿し始めている悲しみがかき乱されて、二ヶ月前と変わらない身の置き場のないような気持ちになるのです。

 「でもよく看病されましたよ」と言っていただいても、実は少しもなぐさめられることはなく、結果として晴子の命を助けられなかったという、取り返しのつかない思いにさいなまれます。不思議なことに、晴子の癌は、私の夢に現れた亡き父の警告の言葉で発覚したのですが、それまでに肩や腰が痛んだりという兆候がそういえばあったなと、なぜ気づいてあげられなかったのかと、その半年前に人間ドックに入っていて異常がなかったのは見落とされたからではなかったかと、何とか一年前にタイムマシンで戻してもらえないだろうか、そうすれば何とか食い止められるはずだと、一人になると、もうどうしようもないことを繰り返し悶々と考えています。

 私は、西洋医学というものに見捨てられた晴子にも助かる細い道があるという確信を幻のように持って、さまざまな独自の治療を試みました。その確信がどんなに強いものであったかということが、闘いに敗れた今の私の底なしの落胆からしみじみとわかります。最期の晴子はまるでインド洋の津波に曳かれるようで、どうしようもないという風でしたが、奇跡が起きたといえば、激痛を伴う膵臓癌でありながら痛みというものが殆どなく、化学治療もせず、薬さえも飲まずに晴子らしくスッピンでまことに自然に逝ったということでしょうか。

 葬儀の前後は、心身ともに麻痺したように思われて、自分の歩いている世界がリアルなものに思えませんでしたが、時がたって普通の感覚が戻ってくるにつれて、ナタで生身がザクザクと伐り裂かれるような痛みを感じ始めて七転八倒しています。そして、晴子が感じていたに違いない無念さや悔しさを想像して、一日に何度も我知らず涙が溢れてきます。

 不思議と元気な宇未に、「泣きたい時はちゃんと泣くんだぞ」と、ある日、私が言うと「大丈夫だよ、ママが宇未にくれたのは、さみしくならない才能なんだから」とこれまた深いことを言って私を戸惑わせます。そして「パパも宇未みたいにお外で遊べば泣かないよ」とまで言うのです。ママがいなくなってから、宇未はとても大きくなったようにみえます。

 しかし、私自身が立ち上がってまた生き始めるその時は、晴子と私が一番わかっているのではないかと思うのです。「悲しみは悲しみ、喜びは喜び・・・」とは晴子の言葉です。「和ちゃん、そろそろ泣いてるのにも飽きてきたでしょ」と晴子の声が私の胸に響いてくる時がくると思うのです。

白雲院悠然晴和大姉

 この晴子の法名をぼんやりとながめておりますと、晴子の太陽の笑顔がフワッと浮かんで、「なぜ晴子をこんなに早く私から奪われたのですか?」という恨むような問いかけが消えるときがあります。それは、こんな答えが聞こえたからです。「かずみくん、私が君に晴子さんという人を贈った時、敢えて言わなかった条件があったのだけれども、それは15年後には晴子さんを返してもらわなければならないということと、その代わりに三人の幼い娘を置いていくということだったのだよ」

 このお話は、お通夜の喪主のご挨拶の折にもさせていただきましたが、この神様の声に、私は初めて怒りや恨みではなく「晴子にあわせていただいて本当にありがとうございました」という感謝の気持ちが沸きあがってくるのを感じたのです。私は晴子に出会わなかった自分の人生を到底想像することはできないのです。晴子と出会うことで、私はどんなに幸せにさせていただいたことか。私の胸の中に、ほんとうに、ほんとうに楽しかった晴子との時が、いきいきとしてうれしそうな晴子の表情と一緒に浮かぶ時に、「晴子は生きたなー」っと思わず笑顔になるのです。

 3月13日、11回目の結婚記念日の三日ほど前、私は晴子の部屋に積み重なったたくさんのダンボール箱が気になって一つの箱を開けると私の目にこれまで見たことのない一枚のインド人の写真が飛び込んできました。この老人は晴子を見つめている、この少年も、この少女も晴子を見つめている。晴子を見つめる目、目、目。晴子の撮った写真を前にして、私は、葬儀の時にキャノン写真新世紀事務局のタカハシさんと東京写真美術館の鈴木さんに言われた言葉を思い出していました。「下館さん、中村ハルコ写真集創りましょう!」

 フォトグラファーとしての晴子は、一冊の写真集しか出版していませんが、未発表の写真は膨大な数です。そして、その写真は大まかに言えば「イタリア」「アフリカ・インド」「東北」「家族」の四つの世界に分類されます。私は、写真家晴子を見つめた世界中の人々の目に向き合って、晴子の見つめた被写体を世に出していく義務があるかもしれない、と思い始めています。

 この仕事を通して晴子に再会できるかもしれないと、私の知らない晴子に会えるかもしれないと思う時、心がときめいて、また生き続けることができるかもしれないと思うのです。

 晴子のことで、私が劇団の稽古になかなか足を運べなくなったことを一番気にしていたのは、晴子でした。晴子は、カンパニー創設に関わった重要なメンバーの一人として、カンパニーをとても愛してきたことは、劇団のこれまでのすべての舞台とポスターの撮影を引き受けてきたことに最もよく現れています。そして『破無礼』への思い入れには並々ならぬものがありました。ですから私たちは「カンパニーらしい独特なハムレットが見たいわ」と言っていた晴子にガッツポーズをとらせる舞台を創らなければならないと、そして、必ずや素晴らしい仕事が成し遂げられると信じています。

 少しばかり足踏みしてきましたが、これからまたジックリと時間の鍋にかけて、前代未聞の東北ハムレットを創っていきたいと思っています。どうぞ皆様これからもよろしくおねがいいたします。

2005年3月16日