二年が過ぎて
下 館 和 巳
桜が満開のある日、娘三人と近くの公園に行きました。公園に近づくと三歳の羽永(はな)が真っ先に駆け出して、小学一年生になりたての創楽(そうら)が、前のめりの独特なポーズで羽永を追いかけます。小学四年生の宇未(うみ)は私と並んで歩きながら、照れくさそうに二人のやんちゃな妹を見ていました。 その向こうに広瀬川が見える桜の木の下を、まるでチビクロサンボのトラさんのように、くるくる廻る羽永と創楽の元気な姿を見ながら、私は、あっという間というよりも、ながいながい二年を思っていました。
三人娘がそれぞれにママと生まれたての時を過ごしたマンションを離れて、ママの健康の快復のために近所の牧師館に移ったのは、ちょうど3年前の夏でした。私と晴子にとって、その館の魅力は、まるでイギリスを思わせるような広い芝生の庭もさることながら、30畳程のリヴィングに備えつけられた大きな美しい鉄平石の暖炉にありました。ですから、クリスマスには、家族そろって暖炉の前に座り、赤々と燃える薪木をぼんやりと見つめていたものです。
晴子がいなくなって、その館に住む意味はもうありませんでした。しかし、晴子との思い出に溢れたあのマンションに戻ることへのためらいと、晴子が人生の最期の七ヶ月を過ごしたこの場への特別な思い入れのために、離れがたいと思っていました。あの頃、どんな思いで暮らしていたかしら?ある冬の朝に記された備忘録にはこうあります。
「はながミルクこぼし、そうらが味噌汁こぼし、うみがお茶こぼし、僕が
灯油こぼし、こぼしっぱなしの人生に腹が立ってきた朝、ふと目にとま
ったおき上がりコボシが、きらきらして見えた」
何もなければ、おそらく今もまだ、その館で暮らしていたかもしれません。でも、どうしても離れなければならない出来事が起きたのです。火事です。私が、いつものように帰宅していたとすれば、あの木造の古い館は、私たち四人を呑みこんだままあっという間に全焼したに違いない、と考える度に背筋が凍ります。その夜、私は、劇団の稽古場を間違えたために(カンパニーは自前の稽古場を持っていませんから、毎週稽古の場が異なるのです)、予定より一時間ほど遅れて帰宅しました。そのために、既に帰っているはずのお手伝いの方もまだ家にいらして、いつもならば添い寝をする私と一緒に寝入っているはずの娘たちも、起きていました。帰り支度をして階下の玄関先にいるお手伝いさんに「おやすみなさい」を言う娘たち、「今日はもう遅いからお話はしないよ。さあさあ、早く寝よう」と言う私が、まさに枕に頭を乗せようとした瞬間、宇未が「パパ、あのパチパチって音なに?」私は、ハッとして起き上がると、音のする方に走っていきました。
その音は宇未の部屋からのものでした。その部屋の西側は壁になっていて、壁に隣接して暖炉の煙突がありましたが、火が壁の隙間から、燃え上がっていたのです。私は、お手伝いさんを呼び、外は寒すぎるので、子供たちをとりあえず一階に避難させると、消防署に電話。そして、台所から、ラーメンスープを作るための大きな寸胴鍋を持ち出して、二階にある風呂で上半身にお湯をかぶり、燃える部屋に突進し、寸胴鍋の水をかける。その間、娘たちは恐怖から泣いていたらしいのですが、宇未はなぜか私の消火を手伝いに来てくれました。「パパ、パパ、お水!」と叫んで差し出してくれたのは、小さなマッグで。私は、吹き出しそうになりながらも、怖かったに違いないのに、マッグに水を汲んで二階に上がってきてくれた宇未の勇気によって、どんなに心奮い立たされたことか。夢中になって水を連投した末、一瞬、火は消えたように思われたのですが、天井の隙間から炎が見えた時、もはやこれまでと、隣の部屋に積み上げられた晴子の写真のダンボール箱、その中の膨大な数の写真を前に、力なく立ちすくんでいました。消防車が到着したのは丁度その時でした。
その日、家族は、近所に住む友人の斉藤さんご夫妻のバレーレッスン場で休ませていただきました。眠れぬ夜に、私は、久しぶりにレッスン場に足を踏み入れて、遠い時間のことを、まるで目の前に幻を見ているように、思っていました。宇未が生まれる前に、斉藤和美先生の指導のもと、晴子とここで踊っていた時を、ナポリのホテルの誰もいない屋上で、満天の星に包まれながら、地中海の風に吹かれて、たった二人でいつまでも踊っていた夏の夜を。
奇跡的に被害は、煙突付近の壁と、二階の一部屋が焼けただけにとどまり、出火原因は、暖炉と煙突の構造上の欠陥、という報告が消防署によってなされました。煙突のそばの壁の内側は、長期にわたる加熱で燻蒸状態になっていて、暖炉を使えばいつ発火してもおかしくない状態だったようです。不思議なことはこの牧師館の主といえる、そして、まさにその暖炉を造られた宣教師のメンセンディック先生が、火災の直前に危篤に陥り、その数日後に昇天されたことです。
私は、火事の翌朝、無残に取り壊された暖炉を見たときに、執着のようなものから、この家とそれに関わる諸々の苦しい記憶から、解き放たれたような気持ちがしました。そして、この家を出よう、マンションに帰ろう、と思い始めていました。
マンションは、劇団の大道具を担当してくださっている、その道のプロ、千葉さんと梶原さんの手によって二ヶ月がかりで、劇的な変貌を遂げました。昔の面影はまったくありません。しかし、まるで晴子の魂が空間化されたような、その中で娘たちが安心して大きくなっていけるような、つくりになったのです。真っ白な壁、まるみのある柱、あたたかい床、水色のタイル、布でおおわれた灯りと黄金色のランプ、大谷石のマントルピース、破無礼のポスターデザイナーである庄子陽さんが描いてくださった、マンションの扉の絵(イメージは、晴子の愛したイタリア・トスカーナの糸杉の道)、友人の海の画家浜田正徳さんがベランダに描いてくださった、たたみ三畳分の海の壁画(イメージは私の大好きな七ヶ浜)、姪の梨奈が描いてくれた家族の似姿(四人とも海中でひとつのクジラにまたがっている)が飾られた水族館という名のトイレ、外から柔らかい光がさし込むようにガラスブロックがはめ込まれた浴室と半円形のおたまや温泉という名のお風呂、私がラーメン屋さんにもお鮨屋さんにもなれる対面式流し台とカウンターのあるキッチン、子供たちがどこにいてもパパの姿が見えるガラス張りの書斎、宇未と創楽の小さな勉強部屋、羽永のオモチャのコーナー。そして、天井に一万個のお星様が映し出されるプラネタリウムという名の寝室。中村ハルコの代表作が飾られている廊下の壁、そして、更に極めつけは、暖炉の向かい側に設えられたイタリアの窓。それを開くと現れるのは、シャボン玉の中に閉じ込められた108枚の晴子の笑顔。
私たちは、こうして、去年の春、伊達政宗公の霊廟の下という意味で、霊屋下(れいやしたではなく、おたまやした)と呼ばれる広瀬川沿いのマンションに帰ってきました。子供たちのことを気遣ってくださっている、優しい管理人さんや、昔なじみのマンションの住人の方々に暖かく迎えていただいて、そしてこれまで同様たくさんの素晴しい人たちに支えられながら、今は、ようやく少しずつ、ママがいた時のような穏やかな生活に戻りつつあります。『破無礼』の東京公演を無事に終えて、盛岡・仙台イズミティ公演を目前にした、ある秋の夜と朝の間に、私は備忘録にこう記しています。
「朝まだき、目ざめると、うみの、そうらの、はなの寝息。かわりばんこに
スゥースゥースゥー。生きている音、世界で一番いとおしい音、天国の
ハルコの音」
『破無礼』公演が目白押しだったこの一年は、私もだいぶ忙しくなって、娘たちとの時間を確保するために、これまで以上に、いたるところで、いろいろな人の手を借りなければいけませんでした。公演があればパパが不在、となると、娘たちにとって、『破無礼』も、カンパニーも敵になってしまうので、できうる限り、娘たちを連れて歩きました。稽古場にも、東京にも、盛岡にも、平泉にも・・・。そのたびに、母や妹が、時によっては、お手伝いをしていただいている加藤さんまで引っ張り出されることになりましたが、その作戦が効を奏してか、カンパニーの敵になるどころか娘たちは大ファンとなって、羽永は「パパ、こんどは、どこでハムレでちゅか?」と目をキラキラさせて聞きますし、稽古場や舞台裏で、カンパニーのみんなとすっかり仲良しになった宇未などは、(あんなに恥ずかしがり屋なのに)イズミティ公演では、ついに初舞台を(せりふもない影の役ではありましたが)踏んだほどです。
これまでのカンパニーの活動の中で、『破無礼』は特別な意味を持っていると思います。それは次のいくつもの点で。世界演劇史上比類ない作品である『ハムレット』の上演であること、翻案という視点から言ってもこれまでで最も大胆なものであったこと、これまでで最も仙台弁に徹した脚本であったこと、上演に至るまでの道が長かったこと、そして小さな空間にこだわって来た私たちが初めて、それも(実は助成金の関係で致し方なく)大きな劇場での上演に挑戦したことです。
仙台市イズミティ、三日間で五回公演、収容人数2000人、それも再演。このことの大変さに私が気づいたのは、難関の東京公演を終えた後でした。去年3月、仙台青葉区の141の劇場で、800人のカンパニーファンが既に『破無礼』を見ています。たとえ演出が変わり、役者の演技に磨きがかかったとしても、おそらくもう一度足を運んでくださるお客さんは、300人にも満たないだろう・・・そういう危機感から、私たちは、史上最大の作戦と銘打って、今まで眠っていた(?)私が最前線参謀本部長となって、大営業活動に飛び回ったのです。私は、(もちろん東北学院大学で講義のない日と稽古のない休みの日を利用して)武市奈緒子、村田たいこ、高橋文といった、まことに有能な精鋭部隊と共に、なりふりかまわず、いくつもの高校、いくつもの会社、いくつもの団体を巡りました。私の塩釜第二小学校時代の、五橋中学時代の、東北学院高校時代の、国際基督教大学時代の、東北学院大学の仲間たちの熱い援護射撃が、どれほど有難かったことか!汗と涙の行脚で、1000人は来てくれる、しかし、それ以上はもうわれわれの手には負えない、と観念しながら(でも、さわやかに)迎えた公演には、予想をはるかに超えた1700人のお客様が来てくださいました。感無量、感謝感激の『破無礼』公演でした。そして、私たちは、私たちの前に、新しい扉が開かれたことを、深い悦びをもって感じています。
2007年5月13日