フォトグラファー 中村ハルコ
それから
下 館 和 巳
晴子の葬儀が済んでからもう半年なります。冬が去り、春が来て、夏の盛りを過ぎて、もう秋の気配がします。長女の宇未は小学二年生になり、二女の創楽は二年目の保育園児となり、三女の羽永は一歳にして保育園児となりました。冬から春にかけて、子供たちは次から次へと風邪を引いて、病院通いは日課の如くでした。
同居して子育てを助けてくださっていた晴子の母が、梅雨どきに肩と腰を痛めて自宅に戻られてからは、いよいよ四人暮らしとなって、とりわけ夜と朝は毎日、上も下もないテンテコマイです。創楽と羽永はどちらがネズミでどちらがネコかはわかりませんが、トムとジェリーさながら、家じゅうを駆け回って大騒ぎです。
夜は8:30pmには寝室に入りますが、我が家のトムとジェリーはそれからきまってベッドの上で宴会を始めます。歌が大好きな羽永が歌い(ちなみにレパートリーは七曲)、創楽がたった一人の熱心な観客となって、歌い終わるごとに拍手を送るという風です。それはそれで微笑ましい光景ではあるのですが、それが一時間にも及ぶと宇未と私は大抵うんざりしながら、うす暗闇の中で「もう一回叱っても寝なかったらもうほっとくしかないね」などと言葉を交し合ってじっとしています。
ふと目覚めると大抵真夜中で、子供たちは鳴門の渦潮のように私の体の回りをめぐった果てに、創楽は私の膝の間に、羽永は私のお腹の上に、宇未は私の左腕を枕に眠っていたりします。まだ乳飲み子の羽永は朝まで夜二度程ミルクを求めて泣きますが、そんな時は私にオッパイがあればいいなと思います。
四人暮らしとはいえ、ここでの生活はほんとうにたくさんの人々に支えられています。毎週手作りのご馳走をかかえて駆けつけてくれる私の母、衣服の綻びを繕ってくれる晴子の母、月に一度は東京から娘たちを抱きしめに来てくれる私の妹と晴子の姉。陰に陽に支えてくれている兄夫婦。心をこめてお世話してくださるお手伝いさんとベビーシッターさんたち、孫のように可愛がって保育園の送り迎えをしてくださっているボランティアの皆さん、週末娘たちを定期的に預かってくださって我が子の如くまめまめしく面倒を見てくださっている友、遠方から折に触れて我が家を訪れて私の話し相手になってくれる旧友、私が子育てに疲れて気が変になっていはしまいかと案じつつ、夜更けに一升瓶と酒の肴を携えて我が家を奇襲してくれる友、機械音痴の私がしばしば遭遇するパソコン問題を電光石火のごとく駆けつけて解決してくれる劇団員、私が料理教室に通おうとしていることを耳にして出前教室を買って出てくれる仲間、子供たちや私の食生活や健康を案じてくださるダンテやシェイクスピアの会の仲間、私の不自由な生活状況を何かと心配してくれる大学の仲間、メールやお手紙で励ましてくださる遠くイギリス、イタリア、オーストラリア、インド、アフリカの友、晴子と私たちのことを思ってくださるの方々・・・。
今、私は、子供たちによって、たくさんの皆様の善意と愛によって、生かされていることをしみじみと感じながら生きています。
ある晩、宇未と二人きりで湯船につかっていた時のことです。彼女が「ねえ、パパ、学校でお友達が、うみちゃんのママ死んじゃったから、とか言うんだけど、ほんとはちゃんといつもそばにいるわけで、わかってないなーって思うんだけど、説明するのめんどくさいじゃない、だからうみ、一応、うんって返事するんだけど、困っちゃうよね」というのです。その頃は、私も宇未も実は「ママが死んだ」という言い方を嫌っていました。それは晴子の死を認めないという気持ちの表れでもありましたが、そのことで「晴子が死んでしまったこと」にお悔やみを言ってくれる人にさえ、まさに宇未が思ったように感じたものです。どうやら、宇未は「ママが死んだ、という言い方以外で、ママの事を表現できないか?」ということを聞きたかったようなのです。私が「いるんだけど姿が見えない」「それもいることは大好きな人にしか感じられないんだ」とか言ってみせると、「そうだよね、そういう感じだよね」と目を浮かせるのです。
ある休日の夜、耳の痛みを訴える羽永を連れて友人の耳鼻科の所に出かけようとした時です。暗がりの中、羽永を右腕に抱きかかえて車に乗り込もうとした私は、側溝に足をとられて前のめりに転倒しました。後ろから「パパ、だいじょうぶ!」と宇未の大声が、「はーちゃん(羽永のこと)!」と叫ぶ創楽の声が闇に響くと、ポツンと「だいじょぶでちゅ」という羽永の声。羽永を離さなかった私の右腕はザックリ切れて出血しましたが、羽永が無傷だったのは奇跡のように思われました。私が傷の痛みで顔を歪めつつ運転席に着くや否や、宇未がこう言うのです。「パパ、羽永が何でもなくてよかったね。これでわかったでしょ、ママの姿が見えないわけが。見えないからサッと羽永のことを支えられたんでしょ。」私は言葉を失いました。晴子の死の直後、「納得のいかないさびしさ」と呟いた宇未が、あれからずっと懸命に「なぜママが死んでしまったか?」の、なぜ、を考えて、自分で答えを見出そうとしている、と思ったからです。
不思議に大人びたところがある宇未ですが、やっぱり小学生だな、と感じられる時はホッとします。たとえば、 宇未が時々怒ったように「ママがいないなんてズルイよ。うみ、つまんない!」と私に食ってかかる時や、私にからみつきながら「ママに会いたい」とさみしそうに言う時がそうです。子供たちには、我慢しないで淋しかったら淋しいと、悲しかったら悲しいと、苦しかったら苦しいと表現してほしいと思っています。
宇未と創楽と羽永のママは世界にたった一人ですから、私は、そのママのお話を、今ここに生きてあるがごとく、四人の中でいつまでも飽きることなくし続けられるような環境にしていきたいと思っています。
私もなぜ晴子は死んでしまったかという、どうしようもないことを、一生懸命考えていることがあります。ある晩は見事にできあがった理屈にいたく満足して眠りにつくのですが、翌朝目覚めると、その理屈の楼閣は「ああやっぱり晴子はいないんだ、夢じゃなかったんだ」という素朴な感情の波にあとかたもなく消されていて、砂の上に見出すのはただ塩辛い泡だけです。
疲れても、子供たちといる時が一番の喜びです。それでも、折に触れて一人ひっそりと記憶の中の晴子と対話したいと思うことがあります。しかし、今はそれさえもなかなか叶いません。そんな時は、晴子の映画館に参ります。私の瞼の裏が瞬く間に大スクリーンに変貌しますから、目をつぶればそこにいる便利な劇場です。音楽が水のように流れて、爽やかでやわらかくていい匂いの風が吹いてきたかと思えば、おどけた晴子、笑った晴子、ひょうきんな晴子、照れる晴子・・・なぜかどれもおかしくて思わず微笑んでしまう晴子の表情が映し出されます。
私はダンテの『神曲』を読み始めてから30年になりますが、晴子を喪ってわかったことが一つあります。それは死んだベアトリーチェと再会しようとしたダンテの思いです。大切な人の死は、今生ではもう二度と会えないということを意味します。会いたくても会えない、どうしようもないのです。彼女に会いたいという切実な思いが、だから、ダンテに地獄・煉獄・天国という類まれな来世のヴィジョンを創らせたのです。人の思いというもはすさまじいものです。みごとに人間的だったダンテがそこにいます。
私が舞台の『ハムレット』を初めて見たのは、ロンドンのナショナルシアターです。あれからやはり30年です。今、五年越しで取り組んでいる我らが『破無礼』は、この夏の猛稽古を経ていよいよ形が見えてきましたが、晴子を喪ってわかったことは、亡くなったばかりの父を思うハムレットの心の声の叫びです。人間は生まれれば必ず死ぬということを、生きているならばいつかわからぬ死の時まで生き生きと生き切りたいものだ、という思いがこの史上最高の戯曲に溢れています。
近頃、人の一生は長さではない、中身だとつくづく思います。大切なのは、どんなに好きだったか、どんなに愛したか、だろうと。どんなに嬉しくて、どんなに苦しくて、どんなに悲しかったか、だろうと。いっぱい愛すればそれだけ悲しみも深くなります。でも悲しみを怖れて愛さないのはもっと淋しいと思うのです。
マラリアに罹りながらタンザニアを撮っていた晴子、国連軍兵士と一緒に軍用機でソマリアの空を飛んでいた晴子、白血病の二女を必死に看病していた晴子。晴子は冒険というわくわくする言葉の似合う女性でした。晴子といるとどんなこともできそうな豪気な気持ちになったのは私だけではない、と思います。この世で、もっともっと晴子と冒険がしたかった・・・。
“adventure”という言葉の原義を「やってくる困難を致し方なく受けとめること」と、私のギリシャ古典の先生から教えられました。そういう意味で、死は晴子の魂にとって、生まれる以前にはそこにいたであろうところの懐かしい世界への帰郷の冒険であり、残された私と三人の娘にとってもやはり人生の冒険なのです。晴子の死をまず受けとめて、そしてその悲しみを家族で乗り越えていく、その先にまた何か新しい夢が見えてくるにちがいないのです。
最後に、歌人でもある私の母の短歌で締めくくりたいと思います。
いとけなき三人の子がひっそりと
父と並び亡母を見ており
たらちねの母なき部屋に幼三人
父に寄りつつ深深と眠る
生まれながら母の温もり知らぬを
しみじみ見れば笑顔少き
照らされて桜の花は哀しかろ
戸惑うごとく灯の下に降る
散りいそぐ華なら双手に受けように
幼ら遺してひとは逝きたり
下館みゑ子
『短歌人』7月号より転載
2005年8月28日