「ポツンと一軒家」から
更新日時 2019年6月30日
作家 丸山修身
最近、テレビ朝日の「ポツンと一軒家」という番組が評判になっている。日曜日夜7時58分からという競争の激しい時間帯であるにもかかわらず、視聴率は他の人気番組をしのいでトップ、20パーセントを超えているそうだ。僕も好きで、時々これを観る。
観て先ず感じるのは、すごい山の奥に豊かな生活が営まれている驚きだ。まさに一軒家が木々に囲まれてぽつんと建っているのだが、その家が、太い柱、頑丈な梁(はり)と、実に立派な造りである。そこに住んでいる高齢者も、家族仲がよく、自足して幸せそうだ。働きづめに働いてきたといういい顔をしている。話も中身が詰まって、とても面白い。
僕はふっと柳田國男がいう「山の人生」という言葉を思い出した。かつて山の奥に、今は失われた豊かな暮らしが営まれていたのである。実際僕は山歩きをよくするが、僻地の山上に、すごい大きな立派な家が建っていてびっくりすることがある。
考えてみれば、古い集落は山の上の方から拓けたのだ。道はまず高い尾根筋につけられた。下の川沿いを歩くよりずっと安全で、距離も近かったのだ。それに水の取り入れも便利である。東京も先ず最初に人が住み着いたのは、西端の山地、五日市や奥多摩の方であった。山林、養蚕、炭焼き、運送などで潤っていたのである。
僕たちは明治以来の鉄道と車の生活に慣れてしまっているために、その当たり前のことが分からなくなっている。「ポツンと一軒家」を観ると、それが昔の原点に引き戻される思いがするのである。
最近そのことをまざまざと実感することがあったので、次はそのことを書く。先日6月17日(月)、僕は東京の西多摩、あきる野市の外れの深沢という集落に出掛けた。鉄道でいうと、JR五日市線の終点・武蔵五日市駅で降りて、一時間ほど山の奥に歩いていく。
「深沢」は知る人ぞ知る、明治の初めに有名な私擬憲法案が生まれた地である。その場所を自分の眼で見たかったのだ。深沢は当時約二十戸の小さな集落であった。
いい天気である。したたるような緑に覆われた右眼下の渓流からは、清流にしか棲まないカジカガエルのコロコロコロコロと忍ぶような鳴き声が聞こえてくる。時々ウグイスがよく響くさえずりを川筋に響かせる。
僕は川の両側にぽつりぽつりと建つ家の造りに注意しながら歩いていった。山の奥にしては大きな立派な家が多い。横長で二階が広く、一見旅館のような佇まいの家もある。これは養蚕をやっていた古い家の特徴である。つまりこの小さな集落がカイコを飼って大事な収入を得ていたことがくっきりと解る。
深沢家の土蔵は、樹木に囲まれ、川向こうにひっそりと建っていた。母屋は昭和の初めに僕が住む小金井に移築され、テニスコートほどの広さの草の敷地だけがひっそりと広がっている。
昭和四十三年(1968)、この土蔵から、東京経済大学・色川大吉教授を中心とする研究グループによって、古い文書が発見された。読み解くとこれが、基本的人権に基づき、国民の権利をつよく打ち出した、実に開明的な憲法案であった。当時僕は、先ずこのことに驚いた。憲法のような複雑なものは、都会の最高の法律の知識層によって起草されると考えていたのだ。それが多摩の奥まった小さな山村で生まれたとは!
中に調査が入った時、放置されていた土蔵は崩れ落ちんばかりの荒れようであったという。中に子供が入って遊ぶこともあり、書物も湿気で傷んでいたようだ。憲法草案は、壊れかけた行李(こうり)の中から、古びた小さな風呂敷に包まれておよそ九十年ぶりに甦った。土蔵は今は東京都の指定史跡となり、瀟洒な白壁のたたずまいとなって川べりにひっそりと建っている。
当時、自由民権運動の高まり、国会開設の請願とともに、憲法私案はいくつか書かれたようだが、これは最もすぐれた本格的なものであったようだ。後に「五日市憲法」と通称されるようになった。
明治政府によって大日本帝国憲法が発布されたのが明治二十二年(1889)、それに対して五日市憲法が起草されたのが明治十四年(1881)頃といわれるから十年近く早い。それにしても、これほど立派な憲法私案が、なぜ当時二十戸程度の山間の地から生まれたのか? それは僕だけでなく多くの人を驚かせた。
書いたのは千葉卓三郎という二十代の五日市の小学校の教師であった。(のち校長)そしてそれを支えたのは、元名主で深沢の大山林所有者、深沢生丸(なおまる)、権八(ごんぱち)親子だった。当時この辺りは神奈川県で、五日市をはじめとして自由民権運動がたいへん盛んな地だったという。地方の地主層が自由民権運動の先頭にたって政府と対峙するというのは、今からするとびっくりするが、これは明治初期の大きな特徴で、自由闊達の気風が各地に充ちていたことを証し立てている。
山の奥ということで、今の僕たちが誤解しているのである。
憲法草案を起草した千葉卓三郎は地元の生まれではない。宮城県北端、今の栗原市の出身で、元仙台藩士であった。十五、六歳の時に戊辰戦争に参戦して敗北し、いわば東京の端まで流れてきたのだ。
この人の生涯は波瀾万丈である。『明治の文化』(色川大吉著 日本歴史叢書 岩波書店)によれば、卓三郎は維新後様々な人に教えをうけ、蘭学、国学、神道、仏教、ロシア正教、反キリスト教、カトリック、プロテスタンティズム、と実に多彩な精神遍歴を経ている。そして憲法の草案を書き、三十一歳という若さで結核で亡くなっている。
興味深いのは五日市憲法草案の冒頭に「陸陽仙台 千葉卓三郎草」と書かれていることである。「陸陽」とは何か。これは「陽が当たる陸の地 仙台」というような意味であろうか。それとも「陸奥の太陽 仙台」であろうか。いずれにしても千葉卓三郎は、東京の山奥に流れてきても、最後まで仙台藩士として生き、死んでいったことになる。心の中に常に、誇りとして懐かしむ故郷があったのだ。僕はこれに感動した。この背後にはおそらく少年時代の戊辰戦争敗北の記憶があり、明治政府なにするものぞ、という気概気骨があったものと想像する。知的エネルギーの源泉である。
母屋跡地の裏、小高い斜面に深沢家の墓地があり、僕は上ってみた。十数基の墓石が並んでいるが、これが実に変わった墓だった。例えば卓三郎を同志として支えた深沢権八の墓は「権八深沢氏墓」と姓と名前が逆に刻まれているのだ。このような墓を僕は他に見たことがない。西洋の影響であろうか。惜しいことに権八も二十九歳で亡くなっている。
僕は墓の前にしばし佇んで思ったものだ。様々な人生がある。しかし平凡な人生など存在しない、と。どんなに平穏無事に見えようと、一歩入ればそれぞれの人生に嵐や大波がある。それを他人に言わないだけである。深沢家の屋敷跡や墓の前に立つと、激しく生きた人々の息づかいが瘴気(しょうき)のように漂って感じられる。そう思わせる周囲の山野の静けさであった。
「ポツンと一軒家」から様々なことを書いてきたが、ただ注意しなければならないことがある。それは、テレビでは映らない山の暮らしの一面があるということである。ユートピアだけのような山暮らしなんぞある訳がない。
実は僕が生まれ育った信州北端の山奥にも、東京や千葉から無住となった家を買って移り住んできた家族や人がいた。しかしこれは全部、一年か二年でまた出ていってしまった。おそらく、春や夏の山がきれいな時に来て、決めたのだろう。豪雪の中の暮らしの厳しさを想像できなかったのだ。
そういうことが「ポツンと一軒家」では放映されていない。早とちりしないことである。
五日市駅までの帰り道、渓流沿いのアジサイがとてもきれいだった。