青春18切符の旅
更新日:2012.10.15
作家 丸山修身
JR各社が売り出している切符の一つに、「青春18切符」というものがある。普通列車一日乗り放題、乗降自由、五回分で11500円であるから、一日あたりにすると2300円という安さである。青春、と名がついているが、年齢制限はなく、実際に利用しているのは中高年が多いようだ。
僕はこの切符をつかってよく一人旅をする。その愉しさは新幹線ではなかなか味わうことが出来ないものだ。僕の場合、車中のいちばんの楽しみは景色をのんびりと眺めながら、うたた寝をすることである。雪国生まれの者なら経験があるだろう。熱いこたつに尻まで潜りこんで昼寝する、あの全身がとろけるような心地よさ。あれとよく似ている。青春18切符の旅は早立ちすることがほとんどなので、睡魔は必ずやってくる。気ままな一人旅である。乗り越してもかまわないのだ
僕は山が好きなので、車窓風景では、新宿と長野県松本市を結ぶ中央線を好んでいる。中央線ほど山景色に恵まれた路線はないのではないか。新宿駅を出発して高尾山のトンネルを抜けると山梨県で、車窓左手に富士山がくっきりと姿を現す。純白の冬季は、特に素晴らしい。日本一のワイン産地、勝沼ぶどう郷駅あたりでは、一面のブドウ畑の彼方に、日本第二位の高峰・北岳(標高3192メートル)がすっくりと聳え、さらに南に3000メートル級の峰々が長く連なっている。甲府駅をすぎてしばらく行くと、右手に赤岳を主峰とする八ヶ岳連峰が見えてくる。左には岩がごつごつとした甲斐駒ヶ岳。
長野県に入ると、諏訪の手前で、正面に北アルプスの山々、槍ヶ岳や穂高連峰が横に連なって屹立するのを遠望することが出来る。いずれも僕が登った山々で、その時のことを懐かしく思い出すのだ。
かつて民俗学者・宮本常一は、汽車旅の三つの心得を説いた。駅を出て何か土地のものを食べてみること。少し高くなった場所があれば、上って街を眺めて見ること。駅の貨物置き場に何が集積されているかよく見ること。以上によって、その地の暮らしが何によって成り立っているか判るというのである。
これは今も通じる至言だと思う。青春18切符の旅は、当然のことながら乗り継ぎが多くなる。そういう時僕は、少しでも時間があれば、宮本常一に倣って改札を抜け、駅前に出てみる。それから短時間でもいいから周辺を歩いてみる。すると街の雰囲気が自ずと判ってくる。これはガイドブックからは得られない貴重なものだ。
また普通列車では様々な人に出会う。通学の高校生の一団、乗り降りしていく、じいさん、ばあさん。方言まじりの人と語り合うこともある。これは新幹線や飛行機では滅多に味わうことの出来ない愉しい時間である。
青春18切符で旅をしている人は、だいたい判る。男の場合、中高年の一人旅が多い。女性は年齢を問わずグループが多いようだ。若い女性が、仲間数人とこの切符を利用して旅をしているのにもよく出会う。とにかくびっくりするくらい利用している人が多い。それが分かるのは、車掌が車内検札に回ってきた時だ。おや、あの人も、この人も、と驚くのである。
僕のおすすめコースを一つ紹介しよう。それは長野県南部、飯田線の旅である。ここは秘境駅がずらっと並ぶ。深く切れ込んだ谷底を天竜川が流れ、小さな駅がびっしりと続く。この伊那谷は戦前、多くの満州開拓移民を送り出した地として知られている。周辺の切れ立った断崖を見上げると、きびしい生活が想像され、なぜこの地方から多くの村民が、「王道楽土」を夢見て、海を渡っていったか理解できる気がする。
最後に、この夏、僕に最も鮮烈な印象を刻んだ風景を述べる。それは静岡県浜松市に、木下恵介記念館を見学に行った時のことであった。東海道線で小田原駅を過ぎると、やがて左に海が見えてくる。湘南の凪いだ海である。その何と素晴らしかったこと! 列車は海岸沿いの高いところを走っているので、太平洋を左眼下に一望出来る。
根府川(ねぶがわ)駅から眺めた海は、まさに絶景であった。朝日を受けて海面が宝石を散りばめたようにきらめき、そこに小さな漁船がぽつんぽつんと浮かんでいた。まるでこの世ではないかのようだ。僕が東海道線に乗るとき、いつも、最も楽しみにしているのどかな風景である。
実はこの根府川駅、大正12年(1923)の関東大震災で、ホームに停車中の列車が50メートルほど下の海中に転落、約130人の死者を出した悲劇の駅でもある。また周辺の山が崩壊、大規模な土石流が発生しておよそ400人もの村人が犠牲になっている。
この海のうっとりする美しさは、或いはこの悲惨な歴史が裏に秘められているからではないか。僕はそんな想いに耽りながら、海をじっと眺めていた。とにかくみなさんも東海道線に乗る機会があったら、この辺りで車窓からじっくりと太平洋を眺めていただきたい。きっと感動するはずだから。