いとしき馬たち

更新日時 2018年3月20日

作家 丸山修身

 

 最近、飲み屋では馬刺しを出さなくなった。馬刺し、つまり馬肉だが、これは僕の大好物なのだ。飲み屋の人に訊くと、今はちょっと、と言葉を濁していた。レバーや韓国料理のユッケもそうだが、何年か前から、生肉は衛生上の問題から提供が難しくなったようだ。僕は好きなものを食べて具合が悪くなっても一向にかまわないのだが、出してくれなければ食べようがない。残念なことである。

 

 昔は馬肉をよく食べる地域はだいたい決まっていて、それは僕が生まれ育った信州と熊本県であった。普通に「さくら」として馬肉が売られている肉屋も珍しくなかった。馬肉は赤身が多いのでこう呼ばれるようになったようだ。

 肉屋で買うだけではない、実は飼い馬も食べたのである。僕は直接の経験はないが、親や兄姉に聞いたところでは、村のどこかの家で馬が死んだという情報が伝わると、各家で出刃包丁を研ぎ始めるのだという。

 村には「馬の墓場」と呼ばれる場所があって、まずそこに穴を掘って死んだ馬を埋葬する。この時、飯山の保健所から防疫担当者が来て、埋めるところを見ているそうである。衛生上の問題もあって、昔も勝手に食べてはいけなかったのだと思う。

 死んだ馬に土がかぶせられたのを確認すると、保健所の人は帰っていく。その後である。手に手によく研いだ出刃包丁をもって、村人が集まってくる。そして土を取りのけ馬を掘り出すと、おいしそうな尻やももの肉をぐっさりとえぐり取って家に持ち帰るのである。まるで目に見えるような光景ではないか。肉は貴重だったので、ただ埋めて腐らせるなどということは決してしなかったのだ。

 これは保健所も充分知っていたはずである。というのは、これで罰せられたという話は一度も聞いたことがないからだ。保健所にしてみれば、自分たちが帰った後、村人が何をやろうと知ったことではない。どうなろうと本人の責任である。

 このようにして村人が馬肉を食べることに、ひそかに協力していたのだと僕は考えている。

 

 我が家でも実は飼っている馬を食べたことがある。ただこれには特別な事情があった。

あれは僕が小学校二年生の時だった思う。生まれて四、五ヶ月の子馬が高さ20メートルほどの崖から転落し、腰骨を折って足が立たなくなった。母馬と一緒に山につれていったのだが、子馬というのは実に無分別に跳んだりはねたりして落ち着きがないのだ

 その子馬を家に運んで来て、馬小屋の前の土間に、子馬の腹下に縄を何本も通して天井から吊った。後ろ足にまったく力が入らないので、そうしないと横倒れになってしまうのだ。そして時々母馬を小屋から出して乳を飲ませた。

 そんな日が四、五日続いただろうか、ある日学校から帰ると、子馬は忽然と姿を消していた。それだけで、僕が学校にいっている間に何かあったか、はっきり分かったのである。子馬はどうなったのか、とは僕はひと言も尋ねなかった。

 その夜のことである。夕食に馬の肉がでた。それは飲み屋で出すような薄切りの上品なものではなく、ぶつ切りしたような塊であった。僕はちょっと口をつけたが、ひどく乳臭かった。これがあの子馬だと思うと、すぐ食べるのをやめてしまった。この間、父も兄も、馬の話は一切しなかった。

 

 僕の家では、僕が中学を卒業するまで馬を飼っていた。農耕用である。小学校五、六年生になると、その馬を飼うのは僕の仕事となった。昔は子供でも家で何らかの仕事を与えられていた。飼うというのはつまり餌を与えることだが、夏は山から刈り取ってきた青草が主な餌(飼い葉)であった。冬は干した藁を押し鎌で二、三センチぐらいの長さに切って、粉糠(こぬか)や野菜屑を混ぜ、米のとぎ汁をかけて与えるのである。

 馬は利口で、僕が学校から帰ってくるのをよく知っていた。かすかな足音を聞き分けるのだろうか、まだ僕の姿を見ないのに蹄(ひづめ)で足元を蹴って食べ物を催促した。

 

 この馬に関して一つの忘れられない思い出がある。あれは僕が中学一年の夏だったと思う。僕は何の用でか、山で空馬(からうま)をひいていた。と、空がにわかに暗くなり、雷が鳴り始めた。やがてすさまじく稲妻が走り、しのつく豪雨となった。道を滝のように水がついて流れていく。

 僕は馬をひいて、ミズナラの林に入った。少しでも葉陰で雷雨をしのごうと考えたのだ。依然として空に稲妻が走り、雷鳴が地を震わせるかのようだった。

 と、馬がしきりに僕に身を寄せてくるのである。特に首を僕の体に押し当てようとする。僕は馬の気持ちがはっきりと分かった。子供でも人間に体を接していると安心するのだ。それが分かって僕は、近くに山小屋があったので、自分と一緒に馬を中にひき入れた。他家の小屋で、普段は馬を入れるなどということは絶対にしない。

 僕はこれでどんなに怒られてもかまわないと思った。そのようにして猛烈な雷雨をしのぎ、小降りになるのを待って山を下ったのだった。僕はこの時の、馬が首を押しつけてくる感触をずっと忘れない。

 夏の暑い時季、僕はよくこの馬を近くの河原へつれていき、藁束で体を洗ってやったものだ。なんとうっとりと心地よさそうな目つきだったことだろう。洗い終わって手綱を解いて放してやると、先に立って、自分でとことこと家に向かって歩いていく。そして自ら馬小屋に入っていくのであった。

 この馬は、僕が中学三年生の晩秋に売られていった。来年からは代わりに、家に耕耘機(こううんき)が入るのだという。

 今日家に帰ったらもう馬はいないのだ。そう思うと、朝、学校へ行くのが悲しかった。

 

 みなさんは道ばたに馬頭観音の石像を見たことがないだろうか。これは観音さまの頭に、正面から見た馬の顔がのっているからすぐ分かる。単に石に「馬頭観(世)音」と文字が刻まれただけのものもある。とにかく各地に驚くほど数が多く、気をつければすぐ見つかる。

 これは馬を失った時、その飼い主が供養のために建てたものである。ひどい山奥の道の脇にも建っており、これはその場所で、崖から転落したり、きつい仕事で命を落としたりしたに違いない。人間がやれない力仕事をやらせる訳であるから、見ていて、馬は本当にかわいそうだった。

 それだけに馬の死に対して、飼い主の悲しみも深かったのである。道ばたにひっそりと建つおびただしい馬頭観音が、今もそのことを教えてくれる。

 

 戦(いくさ)となれば、人間とともに犠牲になるのは馬だった。黒澤明の映画では、馬が重要な役割を背負って登場する。例えば『七人の侍』。あれは馬なくして成らない映画である。ラストの泥まみれの戦いの迫力は馬によって生み出されたものだ。黒澤明は馬つかいの名手で、野武士の一団はいつも馬に乗って戦っていた。

 

 馬を飼う暮らしはずっと僕の夢だった。自分でペットのように飼いたかったのだ。猫や犬にくらべて図体が大きすぎるが、それでも僕は自分で飼って、時々背にまたがって自由に山野を散策したかった。それは想像するだけでうっとりとする快楽だった。

 今やあれは夢のまた夢、それでも僕は時々その夢を愉しんでいる。