雪国の春・茅山(かややま)のあった頃

更新日:2017年4月4日

作家 丸山修身

 

春がきた。サクラの季節である。サクラといえばソメイヨシノが一般的だが、僕はむしろヤマザクラが好きだ。ヤマザクラがソメイヨシノと異なる点は、花と一緒に葉っぱも芽を出すことである。花だけが先にどっと群がり咲くソメイヨシノは、僕にはどこか、あられもない、もろ出しストリップのように思われる。

世阿弥ではないが、何事も「秘すれば花なり 秘せずば花なるべからず」(『風姿花伝』岩波文庫)、ヤマザクラは楚々として実にいい。花の大きさも色も、生えている場所によって微妙に違う。

 

さて、今回は雪国の春の思い出である。特に茅(かや)にまつわる思い出について書くことにする。というのは、茅を利用した暮らしというのは、団塊の世代である僕達が書いておかなければ、もう永久に分からなくなっていくと考えるからである。茅は雪国の農村の生活に必要欠くべからざるものであったが、この重要さにふれた文章は、僕は浅学にして今まで読んだことがないのだ。

 

昔、戦後の昭和三〇年代までは、どこの山村も茅を刈り取る広い茅場をもっていたものである。東京にも江戸や明治の時代にはあったはずで、都心の中央区日本橋に「茅場町」の地名が今も残り、また地下鉄日比谷線・東西線には同名の駅が存在する。茅場は茅原とも茅っ原とも呼ぶが、僕の田舎ではそれは山にあった。集落から一時間ほど山を登っていった比較的なだらかな斜面が、一面に茅場になっていたのだ。したがってここでは「茅山」と書くことにする。

 

茅山は何のために存在したか。まず、屋根をふく茅を得るためである。昔の家の屋根はほとんど茅葺(ぶ)きで、「屋根や」とよぶ屋根ふき職人もたくさんいたものだ。屋根やがいなければ家にならないのであるから、大工、左官などと同等に重要な職能で、僕の同級生にも親を継いで屋根やになったものが何人もいた。

茅はまた、飼い馬の飼料にするため、必要不可欠なものであった。特に、乾して貯え、藁とともに長い冬期間の飼い葉とした。食べ残した茅の茎は馬小屋の中で糞尿にまみれて踏まれ、肥やし場に積み上げて発酵させ、よい堆肥となった。発酵すると熱がでて、もうもうと湯気が立ちのぼったものである。この肥やし場を掘ると、カブトムシのイモムシ(幼虫)がごろごろ出てきた。

また、茅は釜でご飯を炊くのに使った。茅は火付きがよくてよく燃え、「始めちょろちょろ 中ぱっぱ(最初は弱火で、噴いたら強火で)」という、おいしい釜のご飯の炊き方にぴったりだったのである。

とにかく茅にはまったく無駄がなかった。そして暮らしにとても重要なものであった。今はこのことが忘れられている。

 

秋に刈った茅はよく乾して山に積んでおき、雪が締まる春先三月終わり頃、大きな橇(そり)で村に下ろした。これは大変な重労働であった。急坂を滑り下るのでスピードが出る。舵(かじ)取りが難しく、また橇がジャンプする。子供の僕も、橇の側面に乗って必死に茅にしがみついていたが、毎年振り落とされたものである。

 

しかし僕にとってもっとも忘れられない茅山の思い出は、早春のワラビとりであった。季節は五月の大型連休が明けた頃で、野山のそこここに、フデリンドウの小さな紫花や、淡い紅のショウジョウバカマが咲いていた。いずれも春の精―スプリング・エフェメラルである。

ちょうど茅山に茅が柔らかな淡緑の芽を膝下ぐらいまで伸ばした頃、そこにワラビがどっとアタマを出す。すると集落の小学生が一団となり、昼食持参で山にワラビとりに登っていく。採ったワラビを、飯山の町に売るのである。そしてそのカネで、ソフトボールのボールやバット、女子のバレーのボールなどを買ったりした。つまり自分達で山からカネを稼いだのである。

だから仕事といえば仕事なのだが、みんなそんなことはつゆ考えず、思うさま山で遊んでいた。なにせワラビは鎌で刈るほど生えている。採ったものは大きな麻の南京袋(なんきんぶくろ)につめて背負い下ろすのだが、ちょっと働けばすぐ袋は満杯になってしまう。だから遊ぶ時間はたっぷりある。たっぷりあるどころではない、男も女もほとんど遊んでいた。これを僕達は「山遊び」と呼んだ。山「で」遊ぶのではない。山「を」遊ぶ、のである。

 

まだ山肌に雪が消え残っているところがあり、その中に小さなヤマザクラの花が咲いていた。しかし吹いてくる風は温かくてやさしい。―先ず木登り。枝を大きく揺すってブランコのように愉しむのである。これを「揺さんこ」と呼んだ。揺さんこの木には適否があって、カエデの仲間がいちばんよかった。よくしなって折れないのである。その点、シラカバやミズナラは駄目だった。男も女も元気のいい山猿であった。

遊び疲れると、茅っ原に腰をおろして夢を語り合った。あれは僕が今思い出して、もっとも愉しい、至福のひとときであった。

 

好天の日は、はるか北方に佐渡が見えた。直江津(なおえつー現上越市)の海の彼方に、小さな島影が浮かび上がっているのである。僕達はそれを見て歓声を上げるのだった。

あれは小学校、四、五年の時だっただろうか。佐渡を遠く眺めながら、いつかみんなで佐渡にいって金(きん)を拾ってこようと語り合ったことがある。僕は佐渡に行けば、道ばたに金が石ころみたいにごろごろ転がっているものと思い込んでいた。僕は父親に、佐渡へいって金を拾ってくればいいじゃないか、と真剣に勧めたこともあった。というのは、父親がカネがない、カネがない、としょっちゅうくどくので、佐渡で金(きん)を拾ってくればたちまち大金持ちになれると考えたのだ。父親がバカにしたような顔で返事もしないのが不可解であった。

 

また僕達は声を合わせて佐渡がでてくる歌を歌ったものだ。『砂山』(北原白秋作詞 中山晋平作曲)である。

 

海は荒海 向こうは佐渡よ

すずめ啼け啼け もう日は暮れた

みんな呼べ呼べ お星さま出たぞ

 

この歌を歌っていると、僕はいつも、直江津の海岸で山椒大夫(さんしょうだゆう)によって人さらいにあい、母子別れ別れとなった『安寿(あんじゅ)と厨子王(ずしおう)』の話を思い出し、哀しくなるのだった。

 

あれは村が過疎化し、屋根を茅でふく家も途絶えて何年かしてからであった。僕は盆に田舎の家に帰った折、昔の茅山に登っていってみた。

すると、何ということだろう。一面に茅が茂っていた場所にタニウツギの灌木(かんぼく)が生え、すっかり様変わりしているではないか。僕は茫然と立ちつくした。茅山、茅場というものは、村人が苦労してつくり上げたものだということを知らなかったのだ。幼い頃から見なれていたため、自然に出来たもので、これからも昔のままに在り続けるものと愚かにも思い込んでいたのだ。

そうではない。放っておけば木が生えるので、長年にわたり、木を伐り、火を入れて、大切に大切に育てたものだったのだ。

 

僕達を手のひらにのっけるようにして遊ばせてくれた、あの豊かだった茅山。また田んぼも畑も、拓くときは大変な苦闘をかさねたことだろうが、棄てられればすぐこのように往古の自然にかえっていく。山も人も、生々流転である。