謙信ずし・歴史の詐欺(さぎ)

更新日:2017年1月4日

作家 丸山修身

 

 新年あけましておめでとうございます。みなさん、どんなお正月でしたか。

正月には、おせち料理、餅など、普段と変わったハレの料理を食べる。おせち料理というのはそんなにうまいとも思わない。おそらく昔の食を再現しているのだろう。そんなことから、今回は食べ物について書くことにする。

 

東北の海辺に生まれ育った方はびっくりされるかも知れないが、僕は高校に入って家を離れるまで、「すし」というものを食べたことがなかった。すしにもいろいろあるが、ここで僕がいうのは江戸前の握りずしである。   

僕が生まれた長野県には海がなく、また育った村が山奥だったので、新鮮な魚が手に入らなかった。だから盆や秋祭などに農協なんぞが売り出す古いマグロの刺身やイカ刺しを食べて、ひどい食中毒をおこしたという話をよく聞いたものだ。僕の田舎の兄もその一人で、ひどい目にあったと嘆いていたが、まったく騒ぐことはなかった。つまり新鮮な生の魚を食べるという習慣がなく、刺身を食べる時はこわごわ、覚悟が必要だったのだ。 

ウナギも東京に出てくるまで食べたことはなかった。ドジョウはうようよいたが、村にウナギはいなかったし、店もなかった。

 

スシ、スシ……いったいどんな形をしているのか。そしてどうやって食べるのだろう、と僕はしばしば想像したものだ。そして中学一年か二年の頃だったと記憶する。僕は東京に就職して盆に帰省した二十歳前後の娘さんに、東京の「すし」とはどういうものか訊ねたものだ。彼女が言うには、小さいムスビみたいなものを握って、そこに刺身を張りつけ、醤油とワサビをつけて食べるのだという。

みなさん、まったく先入観をもたず、これがどういうものか想像してみていただきたい。僕はまったくイメージが湧かず、疑問は深まるばかりであった。すると、いっそう憧れがつのった。そして思った。刺身はごはんなんかにくっつけず、そのまま食べればよいではないか。その方が面倒くさくなく、ずっとおいしいのではないか。なんというヘンテコな食い物だろう。

東京へ出ていったら、まず「すし」というものを食べてみたい。それは僕の大いなる願いの一つとなった。

 

実は僕の村にも「すし」と称するものがあった。別名「笹ずし」である。説明すると、これは山でクマザサをとってきて、その葉っぱの上にご飯を広げてのせ、そこに具をのっけるものである。具となるのはまさに土地でとれたものだけで、ゼンマイやワラビ、コゴミ、ギボウシなどを乾して貯えておいたものを水で戻して刻み、ダイコンの味噌漬けを細かくきざんで一緒に油でいためるのである。そこに彩りとして昔は赤いデンブをちょこっと添えていたが、最近は紅ショウガを使っている。

一番重要なのは、オニグルミやヒメグルミといった天然のクルミを少量隅にのせることだ。この脂っこさと味噌漬けの塩気、山菜のうまさが、絶妙に味を引き立て合うのである。 

ご飯の白さと、瑞々しい笹の葉の濃い緑との対照が、とても美しい。笹の葉からは、かすかなよい香りも立ちのぼり、また防腐作用もあるという。そんな大切なハレの食べ物であった。

 

ところが最近、怠けて、本来のクルミの代わりに、村でカシグルミと呼んでいた西洋グルミを買って添えている。これはもう最低、最悪、邪道といってよく、笹ずしのうまさを消している。西洋ぐるみは日本古来の和グルミに比べて、味が淡泊で、まったく合わないのだ。日本の天然グルミは殻が固く、割って実をほじくり出すのが大変である。その点、西洋ぐるみは掘り出した実を買い求めることも出来るから、楽なのだ。手抜きもいいところで、ひどい堕落である。

 

この笹ずしに、さらにとんでもない事態が起きている。なんと、甲斐(山梨県)の武田信玄との川中島合戦に向かう越後(新潟県)の武将・上杉謙信の軍勢に村人が加勢して、通過する際に差し出したというのである。上杉謙信が村近くの峠を越えて、川中島へ向かったという言い伝えがあるのだ。そして「謙信ずし」なる、いやらしい、物欲しげな名前をつけてあちこちで売られている。

一時、長野駅の駅弁としても売られたことがある。僕は一度買って食べてみたが、まがい物でひどくまずかった。そして添えられた説明文に、上杉謙信、川中島合戦、などとまことしやかに書かれていた。

 

バカなことを言うものではない。笹ずしは村でとれたものだけを使ってつくる、いわば生活の知恵の結晶である。僕はその方がずっと誇らしい。僕が調べたところによると、そもそも村で米が作られ始めたのは江戸時代中期のことだ。それ以前は焼畑の時代、さらにその二百年近くも昔の戦国時代に、通過していく大軍勢に笹ずしなど提供できるはずがないではないか。

その何よりの証拠に、僕が子供の頃、「謙信ずし」なる言葉は存在しなかった。笹ずしでさえなく、ただ「すし」と呼んでいたものだ。

「謙信ずし」なる奇怪な言葉が登場したのは、NHKが大河ドラマを始めた昭和三十八年(1963)から何年か経った後である。その経緯も僕は知っていて、僕の東京の兄の一人が、「謙信ずしという名で売り出したらいい」と村衆に知恵をつけたのだ。僕はその場にいたので、はっきり証言することができる。僕はその時、ひどく兄を軽蔑したものである。

 

これは歴史、伝説というものがどのようにつくられていくか、如実に示している。つまり、歴史の表舞台に連なりたいという庶民の秘められた願望が、ぽっと発火したかのように形を結ぶのである。『赤と黒』などのフランスの大作家・スタンダールは、これを「結晶作用」と呼んだ。ある物質が溶けた水溶液が一定の濃度に達すると、ぱっと結晶となって物質が出現する現象である。同じことが人間の精神についてもいえる。

普段、日の当たらない暮らしをしている村人ほど、こういう派手派手しいことを考える。人間の性(さが)である

 

郷里が名産として観光で名をあげようと努めているのに、僕がこのような水をぶっかけることを書く。「田舎へ帰ったら石を投げられるかもしれないなあ」、と半ば冗談で言っているが、たとえそうであっても言うべきことは言い残さなければならない。

僕はウソがまかり通り、やがて史実として定着していくかもしれないということが耐えられないのだ。これは捏造(ねつぞう)であり、もっとはっきりいえば、歴史の詐欺(さぎ)である。

 

かつてイタリアの哲学者・歴史家のB.クローチェ(1866―1952)は、「あらゆる歴史は現代史である」という言葉を残した。まさに現代の価値観、ものの見方、歴史観から振り返った過去の歴史なのだ。そこには濃密に「現代」が反映している。だから僕は、平家落人集落伝説などを見るとき、クローチェの言葉を心に留めて、ワンクッションおいて考えることにしている。そのまま単純に信じると、とんでもないことになる。

「謙信ずし」もその一つの好例となるだろう。それがこの文を書いた目的である。自分の郷里のことだから、悪口も安心して言うことが出来る。

 

 

郷里の諸君よ、我が毒舌を許せ。石を投げてくれるな。これも郷土愛の一つと思っていただければ幸いである。