裸・雪国の知恵
更新日:2016年12月6日
作家 丸山修身
先月11月24日、東京に初雪が降った。11月に都心で雪が降ったのは昭和三十七年以来とのこと、さらに積雪をみたのは明治八年(1875)の観測開始以来初めてだという。もちろん僕も、東京で紅葉と一緒に雪を見ることなど初の体験である。
大きなぼたん雪が空から落ちてくるのを見上げて、僕は郷里の冬を想った。僕が生まれた奥信濃の山奥の村は、普通の年で大体3メートルから4メートルの雪が降り、12月から4月初めまでは完全に車の通行が途絶したものだ。除雪のことを普通は雪かきとか雪下ろしと呼ぶが、僕の田舎ではそんなヤワなことは言わない。ずばり、「雪掘り」である。雪の中から掘り出すのだ。
そんな深い雪の中の暮らしからは、自ずと様々な知恵が生み出されたものである。今回はそんな雪にまつわる思い出を書いてみたい。
先ず、真冬でも下着をまったく着けず、素っ裸で寝る就寝の仕方がある。これを「すっこ」と呼んだ。僕達の世代はもう「すっこ」では寝なかったが、父親より上の年代ではまだ残っていた。
「すっこ」は東北でも行われたようで、例えば青森県八戸市出身の三浦哲郎の芥川賞作品『忍ぶ川』(受賞は昭和三十六年・1961)に、次のような印象的な場面がある。「私」と、東京深川生まれの「志乃」との、故郷における新婚初夜の場面である。十三夜の月光が、本州北端の雪の野をしんしんと照らしている。
私は、二つならべて敷いた蒲団の一方を、枕だけのこして手早くたたんで、
「雪国ではね、寝るとき、なんにも着ないんだよ。生まれたときのまんまで寝るんだ。その方が、寝巻なんか着るよりずっとあたたかいんだよ」
さっさと着物と下着をぬぎすて、素裸になって蒲団へもぐった。
志乃は、長いことかかって、着物をたたんだ。それから電灯をぱちんと消し、私の枕元にしゃがんでおずおずといった。
「あたしも、寝巻を着ちゃ、いけませんの?」
「ああ、いけないさ、あんたも、もう雪国の人なんだから」
志乃はだまって、暗闇のなかに衣ずれの音をさせた。しばらくして、「ごめんなさい」ほの白い影がするりと私の横にすべりこんだ。
私は、はじめて、志乃を抱いた。志乃のからだは、思ったよりも豊かであった。……乳房は、にぎると、手のひらにあまった。
この小説は熊井啓監督によって映画化され(昭和四十七年・1972)、「私」を演じたのは俳優座の美男俳優・加藤剛、「志乃」役は同じく俳優座の看板女優・栗原小巻であった。栗原小巻は当時、吉永小百合の「サユリスト」に対して「コマキスト」というファンの呼び方もあったほどの人気美人女優で、僕もひたすら栗原小巻のヌードが見たくて、胸をときめかせて観にいったものだ。
もう一つの裸の知恵は「ぽちゃ」と呼ぶもので、これは風邪に関係する。小学校低学年ぐらいまでの子供が風邪をひき始めたと分かると、子供を素っ裸にし、父親の背中にすっぽりと入れるのである。父親の腰帯をしっかりと締めておき、ゆるめた着物の首もとから、母親など誰か他の者が、肌が直接触れ合うように入れるのである。子供はさながらカンガルーが母親の袋に入った状態となる。
これはとても気持ちのいいものであった。ちょっと脂の匂いがする父親のがっしりした背中の温かさを直(じか)に感じながら、真っ暗な中で子供はやがってぐっすりと眠ってしまう。かるい風邪であれば、たいていはこの「ぽちゃ」で治ったような気がする。なによりも父親とぴったり肌を合わせているという安心感がある。あれほどの心地よい眠りは、いまだに僕の記憶にないのだ。
「父の背中」という言葉は、子供が父親の人生、生き方、を回想する場合によく使われるが、僕の場合はそんな観念的精神的なものではない。それはまさに「ぽちゃ」の生々しい肉体の記憶で、親子の濃密な肌の接触であった。
ぽちゃーこの言葉の響きを僕は好きだ。素朴で、いかにも暮らしから自然に生まれた気がするのだ。すっこ、もそうだが、頭をつかわず、すぐイメージが湧くではないか。
次は雪と裸に関して、とんでもない無知、思い違いをしている映画を二つ取り上げる。もっともこれは体というより足に関した間違いであるが。
その一つは篠田正浩監督、岩下志麻主演『はなれ瞽女おりん』(昭和五十二年・1977)である。
ちょっと説明すると、瞽女(ごぜ)というのは越後(新潟県)を中心に存在した盲目の女旅芸人である。三、四人が連なって門付けして回り、三味線をひいてもの悲しい歌を唄い、米やお金などの施しをうける。先頭の人は歩ける程度には目が見えるのである。僕が小学校三、四年まで村にやってきたが、僕の母親は「ゴゼさんをいじめてはいけない」ときつく言っていたものだ。というのは、村の子供達が、小石を投げたり棒で突っついたりしてよくいじめたからだ。子供というのは残酷なことをするものである。
映画でおりんは、少女の頃も大人になっても、なんと雪の中を素足にワラジで門付けして回っていた。そして「雪の中では素足の方が温かい」といったせりふが流れた。僕は仰天し、あきれるばかりであった。こんなバカなことがあるものか。こんなことをしていたらすぐ凍傷だ。雪の中、足はしっかりと覆うものである。だいいち、盲目の瞽女は雪の季節は回り歩かない。危険を知り尽くしてしているからである。
たしかにマタギや橇(そり)乗りといった雪の中で専門に仕事をする人は、靴下や足袋をはかない。直接、裸足を藁の雪靴に入れ、かかとや脛(すね)をしっかりと藁や脚絆(きゃはん)で覆うのである。これを「おたて靴」と呼んでいて、僕もこのように足を装備して雪掘りなどに出たことが何度かある。足は濡れるが、動いていて血流がよいので凍傷にはかからない。濡れた靴下や足袋をはいていると熱が奪われ、かえって危険だということをよく知っているのである。
もう一作、山本薩夫監督、大竹しのぶ主演の『あゝ野麦峠』(昭和五十四年・1979)もひどかった。糸都と呼ばれていた信州岡谷に製糸女工として働きにいっていた飛騨(岐阜県)の娘達が、故郷に帰っていくシーンがあった。けわしい雪の野麦峠を越えるのに、なんと彼女たちの脛(すね)がむき出しなのだ。こんなバカなことがあるものか。雪をよく知る飛騨の娘達が、こんな無知無謀なことする訳がないのだ。それは死ににいくようなものだ。絶対に足やすねが雪に直接触れないよう身支度するはずである。
製糸女工は悲惨なもの、という観念によりかかって映画をつくっているから、こういう荒唐無稽(こうとうむけい)、無様な光景が現出することになる。誰か教えてやる人がいなかったのだろうか。それも不思議だ。
さて今年はどんな冬になるか。郷里の家はなくなったが、餅が焼けたようにふっくらと盛り上がった一面の雪景色は、今もくっきりと脳裡に残っている。その中には様々な暮らしがあった。先日の雪から、感慨ひとしおであった。