政治という魔物

                                     更新日:2016年7月11日

作家 丸山修身

 

 参議院選挙が終わった。東京では更にこれから、舛添要一知事の辞職に伴い、都知事選挙が控えている。それにしても舛添要一という人間、いかにケチくさい、人品の卑しい小人物であったことか。自分で飲み食いしたものぐらい、自分の金で払えよ。金がない訳ではあるまいし。

 彼は東大法学部の秀才であったそうだが、人間、勉強だけできれば良いというものではない、という典型例である。少年少女はよく記憶して、他山の石とすべきだろう。

 

 選挙となると、いつも不思議に思うことがある。それは傍(はた)から見ていて絶対に当選しないと思われる人が、何度も落選を繰り返しているのに、また性懲りもなく出馬することである。それも供託金を没収されるような低得票なのに、また出て落選を繰り返す。

 一体本人は当選すると思って出ているのだろうか。頭が少々オカシイのではないかと思われることも珍しくない。とにかく選挙となると異様に興奮して元気になる人がいる。みなさんの周囲にも、選挙が好きで好きでたまらない、という人が一人や二人はいるのではないか。

 どうやら政治には魔物がひそんでいるらしい。

 

 実は僕の身内にも選挙マニアがいた。それは本家(ほんけ)のじいさんで、老いてからも、落選を繰り返しながら、飯山市議会議員選挙にまた出馬するのであった。これには家族だけでなく親戚もほとほと手を焼いていた。

 僕の父親は、ああ、イヤだ、イヤだ、と言いながらも、いつしか選挙に巻き込まれ、参謀役をつとめていた。田舎であるから、本家が出るのに分家が何もしないで傍観というわけにはいかないのだ。そして落選が決まると、むっつりとして帰ってきて布団をかぶり、半日ほど情けないうなり声をあげていた。そんな父親を、僕は軽蔑の念で冷たく見るばかりであった。

 このじいさん、飯山に市制が施行された昭和29年の第一回の市議選で最高得票で当選し、初代市議会議長を務めた。じいさん、晩年は明らかに痴呆症状を呈していたが、議長時代の良き時を忘れられなかったらしい。結局、落選を繰り返し、家運を傾けてしまった。

 

 選挙というのは一種の戦争、ぎりぎりの勝負である。一票差でも勝ちは勝ち、負けは負けだ。それはまた利益に直接結びついている。例えば田舎の土木工事関係者などにとっては、ボスが当選するか否かは会社の存亡に関わることがある。

 昔、主に昭和30年代に活躍した大野伴睦(ばんぼく 1890~1964))という自民党の大物政治家がいた。岐阜県選出で、東海道新幹線の岐阜羽島駅は大野の政治力で設置されることになったと当時さかんに噂されたものであった。

 この大野、政治家に関して次の名言を吐いた。

 

 猿は木から落ちても猿だが、代議士は落ちれば、ただの人

 

 なるほど、この通りだなあ、と思わず感嘆して笑いが湧いてくるではないか。猿と代議士(衆議院議員)を比べたところに、何ともいえぬ妙味、ユーモア、選挙の怖さ、はかなさ、が感じられる。

 戦国時代であれば殺し合いで決着したところを、それではあまりにも知恵がなく、無益、非生産的なので、選挙という手段を考え出したのである。この一種の「戦争」であるというところに、異様に精神を興奮させる根本要素がひそんでいる。

 

 かつてマックス・ウェーバー(1864~1920)は、名著『職業としての政治』(岩波文庫)で、政治家のもっとも必要な資質として、情熱、責任感、判断力、の三つをあげた。また不要、危険なものとしてとして「虚栄心」を指摘している。

 これらは別に政治の世界だけに通用する話ではない。例えば会社経営、創作などでも同じ原理が通じる。虚栄心から見栄を張るということは、一番の毒である。ただ政治の場合、虚栄心は権力欲と車の両輪をなすだけに、いっそう危険である。

 ナチスドイツの悲劇は、ヒトラーという虚栄心と権力欲のかたまりのような画家志望の夢想家の男を、頂点に戴いたことにあった。ユダヤ人の殲滅(せんめつ)などという極端な考え方は、まともな訓練を積んだプロの政治家は採らないだろう。ナチスの考え方には、素人の壮大な夢想という要素を僕は感じる。

 

 ドイツの著名な歴史家マイネッケ(1862~1954)は次のように書いている。

 

 ヒトラーの生涯の最後をみれば、決定的な瞬間にかれにとっていっそう重大であったのは、ドイツ民族の幸福ではなく、なお滅ぼされていないかれの個体を救うことであったことが、知られるのである。「わたしが没落すべきであるならば、ドイツ民族もまた没落すべきである」という言葉は、彼が語ったものとされている。

- マイネッケ『ドイツの悲劇』(矢田俊隆訳 中公文庫)

 

 ドイツ人というのはどうも途方もない夢のようなことを考える。例えば去年明らかになった、フォルクスワーゲン社の、ディーゼル車の排気ガス規制の不正問題もそうである。なんと試験時だけ作動する不正ソフトウェアを車に搭載して、検査をパスしていたというのだから驚く。つまり普通に道路を走る時は、大量の有毒ガスをまき散らす訳だ。やることが極度に科学的で、徹底している。

 

 考えていただきたい。こんな手のこんだ科学的なやり方で検査をパスするなどという企てが、イギリスやフランスで起こりうるだろうか。僕はそうは思わない。日本でもそこまで徹底してやる社があるとは思えない。とにかくこれはドイツだからこそ起こった問題であり、ナチスの壮大な夢と遠く底で通じるものがある、と僕はとっさに感じたものである。

 

 脱線したが、政治に戻る。政治には明らかに向く人と向かない人がいる。例えばみなさんは、黒澤明や蜷川幸雄が、知事や市長になっている姿を想像出来るだろうか。こういう人がトップに立ったのでは、下につく人間はたまったものではない。怒鳴られ続けて、毎日地獄だろう。政治とはつまるところ妥協だが、まさに芸術は真逆の世界である。

 

 しかし選挙というのは不思議なもので、出てほしい人ほど出ないものだ。そして、こんなやつが出たってどうしようもない、と思う人間ほど出たがる。都知事選は14日告示、31日投開票だが、いま立候補を予定されている顔ぶれを見ても、一緒に酒を飲みたいやつはいない。みなさんははたしてどのように感じているだろう。