洟(はな)と神・吉野せい
更新日:2015年10月5日
作家 丸山修身
僕が今の子供を見ていて、昔と変わったなあ、と感じられることの一つは、洟(はな)を垂らさなくなったことである。都会はいざ知らず、僕が知る昔の田舎の農村では、鼻の下に二本棒となった洟を垂らしている子供が多かった。
その二本棒も黄色や緑色をおび、粘り気があって、上唇にかかるところまで垂れている。それを吸い上げると、二本棒はツツーっと生きて縮んだように鼻の穴に上がって行く。これを僕達は「ちょうちん」と呼んでいた。ちょうど提灯を畳んだり伸ばしたりする動きとよく似ていたからだ。それほどまでに子供の洟垂らしは日常見なれた光景であった。
どうして昔はあんなに洟を垂らしたのだろう。その理由の一つとして、栄養失調だと聞いたことがある。特に、糖分が不足するとあのような色つきの洟を垂らす、と聞いた記憶がある。またタンパク質不足が原因との説も何かで読んだ。が、これらが確かな研究に基づく説かどうかは知らない。多分、昔の子供は無性に甘いものを摂りたがったから、そこからの当て推量ではないか。
また衛生観念も乏しかった。学生服や着物の袖で洟を拭くため、鉄板のように固くなっててらてら光った袖口をよく見かけたものだ。遊びに出掛ける時、洟をかむ紙を持っていくということは、まずなかったのだ。当時は、ティッシュペイパーなどという便利なものはなかったのである。
そんな洟を垂らした子供を、なんと「神」とまで呼んだ女性がいる。吉野せいという人である。そして『洟をたらした神』という名著まで書いた。
吉野せいを簡単に紹介すると、明治三十二年(1899)福島県小名浜に生まれた。詩人の三野混沌と結婚して、福島県いわき地方の山間地に、夫婦で開拓農民として入植して生涯を終えた。
吉野せいで何よりも驚くのは、『洟をたらした神』という瑞々しさに満ち溢れた本を書いたのが、70代半ばだったことである。執筆をすすめたのが同じ福島県出身の詩人草野心平、それを山岳誌『アルプ』に取り上げたのが串田孫一であった。
『洟をたらした神』は、高等小学校卒の開拓農婦が書いたということも相まって、当時大変な評判を呼び、第六回大宅壮一ノンフィクション賞と第十五回田村俊子賞を受賞した。昭和五十年(1975)のことである。この時すでに76歳、この二年後に吉野せいは亡くなっている。
僕は常々、戦後、陸について書かれた最も素晴らしい文章は『洟をたらした神』だと思っている。(ちなみに海を書いた最高の文章は、熊本・八代海、水俣の海を書いた石牟礼道子『苦界浄土』)
余計な講釈を連ねるより、『洟をたらした神』からいくつか文を引用しよう。先ず、ノボルという数え年6歳の子供が、ヨーヨーがほしくて仕方がないのだが金がないので買ってもらえず、自分で手作りした場面である。
……その夜、吊ランプのともるうす暗い小家の中は、珍しく親子入り交じった歓声が奇態に湧き起こった。見事、ノボルがヨーヨーをつく
りあげたからであった。……やや円筒に近く、売り物の形とはちがうが、狂わぬ均衡のカンに震動の呆けは見られない。せまい小家の中か
ら、満月の青く輝く戸外にとび出したノボルは、得意気に右手を次第に大きく反動させて、どうやらびゅんびゅんと、光りの中で球は上下を
し始めた。それは軽妙な奇術まがいの遊びというより、厳粛な精魂の怖ろしいおどりであった。
『洟をたらした神』
みなさんも、一読、開拓農婦が我が子に汲み尽くせぬ無私の愛情を注いでいることにお気づきだろう。しかも、子供を「神」とまで呼ぶことにびっくりされるのではないか。ここでは自然が血肉と化している。
このような眼差しは人間だけに向けられるのではない。飼っていたニワトリに対してもそうだ。
次に引用するのは、一羽の親鶏が21日間も笹藪に隠れてこっそりと卵を孵し、11羽のひよこを引き連れて、羽がぼろぼろになるまでやつれて姿を現す場面である。
……まるで降って湧いたように小さな雑草の生えはじめた土の上に、あのとさかを垂れためんどりと十一羽の黄色いひよこが晴々しくうご
めいているではありませんか。風が凪いでいるので、ひよこたちはふわふわした毬(まり)のようにふくらんで、黒い目が二つずつ円らにつ
いてきろきろ動いています。……一羽のこの地鶏は何もかもひとりで隠れて、飢えも疲れも睡む気も忘れて長い三週間の努力をこっそり行な
ったのです。自然といいきれば実(み)もふたもありませんが、こんなふうに誰にも気づかれなくともひっそりと、しかも見事ないのちを生
み出しているようなことを、私たちも何かで仕遂げることが出来たら、春は、いいえ人間の春はもっと楽しく美しい強いもので一ぱいに充た
されていくような気がするのです。
『春』
ニワトリを人間のように愛おしく見ている。つまり命あるものを平等に見ているのだ。これはきびしい自然相手の、長い開墾生活から自ずと育まれた眼差しだろう。
しかし山の開拓暮らしには哀しいことも起こる。次は、梨花という名の女の乳飲み子が死に、その野辺送りの場面である。
……背中に軽々と柩は負われた。お前の生まれた小屋、死ぬまで住んだ小屋、どこへも出ずどこへも泊まらず、この山の上で生まれ育ち病
み死んだお前は、低い軒を離れていちご畑の細みちを、あまねき月光と黒い菊竹山の松風とに送られて、とぼとぼと平窪の菩提寺さして遠の
いて行った。ちらちら揺れる提灯の灯のすっかり見えなくなるまで、私は戸口にたってお前に詫びつづけながら身を凍らせて見送った。
住職の僧侶が、寒さでふるえる簡略な読経の声と、墓地の凍土を掘るはね返る鍬(くわ)の音とが、宙を伝うて心の耳にはっきり響きかえっ
たよ。
『梨花』
このような文章は頭で考えて書けるものではない。体で、全身で書いているのである。
このように注がれた無私の愛情を、子供は生涯忘れないものだ。人は主義や思想といった大きなことで生きるのではない。本当に苦しい地点に立った時、自分にかけられた、小さな無私の愛情の思い出に支えられて生きるのである。これは時代をこえて変わらないと僕は思う。
近頃、とんでもない子供に対する虐待事件が起きるが、それは多分、無私の愛情をかけてもらった体験が虐待する側にないからである。