不思議な遭難・雲取山

                                     更新日:2015年8月30日

作家 丸山修身

 

 前回、山形県月山で起こった神隠しともいえる不思議な行方不明について書いたので、今回、もう一つ書く。それは1994年2月10日のこと、場所は多摩川の最上流域、標高2017メートルの雲取山で起こった。雲取山は東京都の最高峰で、山梨県、埼玉県、と県境を接している。東京都も最西端のここまで深く入ると、全く信州や東北の山と変わらない。東京に2000メートルをこえる山があることを僕は喜んでいる。

 

 あれも不思議な行方不明として、当時マスコミを騒がせた遭難であった。慣れ親しんでコースも熟知している山だったので、僕は特に関心をもって推移を見守っていた。

 報道によると、この日、男三人組が「石尾根」という奥多摩湖(小河内ダム)からのメインルートを登っていた。2月半ばであるから雪道である。途中から一人の男が、二人と離れて巻き道をとった。巻き道というのは、アップダウンの激しい稜線上を避けて、文字通り山腹を巻くようにつけられた、比較的平坦な脇道である。疲れを避けたい人はこの道を歩く事が多いが、いずれは先にいって稜線上の道と合流する。

 ところがこの三人組、一緒になることは遂になく、巻き道の男が永遠に行方不明となった。稜線上を歩いた二人は、その男が先に宿泊予定の雲取山荘に向かったのだと考えたという。しかし辿り着いた山小屋に、男の姿はなかった。後から遅れてくるのかと思って待ったが、いくら待っても、巻き道を辿った男は遂に姿を現さなかった。目撃者もなかった。

 

 遭難、ということで捜索が開始された。ところがこれが実に不思議な遭難であった。この日は快晴で、雪の一本道であるから、迷うこともおよそ考えられない。何か急な事情があって、一人でエスケープルートを下った可能性が考えられた。エスケープルートというのは、利用されることがあまり多くない逃げ道である。体調が悪くなった場合や、急な悪天候、時間を急ぐ時などにこのコースが使われる。

 しかし入山者が少ない冬のこの季節、エスケープルートをとれば、雪に足跡がはっきり残るはずである。ところがどのルートを探しても、男が下った痕跡はなかった。

 来た道をそのまま引き返して奥多摩駅方面に下ったのだろうか。とすれば、バス運転手をはじめ多くの目撃情報があるはずである。とにかく、あらゆる捜索がなされたが、男は発見されなかった。神隠しーこの言葉がまたマスコミで躍った。

 

 この行方不明には後日談がある。この半年ちょっと後、僕はたまたま、「雲取山荘」主人・新井信太郎氏に、直接話を聞く機会があったのだ。三人組が当日宿泊する予定だった山小屋のおやじさんである。新井氏は雲取山の主(ぬし)のような存在で、雲取山に関する著書も何冊かあり、またテレビ東京の「お宝鑑定団」に出演したのを見たことがある。いつも頭にタオルをのっけている名物おやじである。

 山日記を読み返すと、新井氏と山でばったり会ったのは1994年12月10日のこと、場所は奥多摩山中、赤指(あかざす)尾根であった。奥多摩湖畔の急坂に開けた小さな集落「峰」から、メインルート「石尾根」に建つ鷹の巣避難小屋に登山道がのびているが、これが赤指尾根である。この道は歩く人も少なく、何よりも新緑や紅葉の樹相が美しいことが気に入っていて、僕は時々ふらっと出掛けるのだ。

 僕が赤指尾根を登っていくと、荷物を背負って登っていく新井信太郎氏一行と一緒になった。三人組で、新井氏の他は山小屋従業員の若い人であった。

 僕は何度も雲取山荘に泊まっているので、新井氏は僕の顔を見憶えてくれていた。尾根の途中で一緒に休憩した時、僕はその年の2月に起こった、例の不思議な三人組の遭難騒ぎについて訊ねた。

「ああ、あれは生きていますよ」

新井氏は確信がありそうな口調で、あっさりと言った。

僕はあっけにとられて次の言葉を待った。

「おかしいんですよね。きっと生きていますよ」

「どうしてですか?」

僕は訊ねた。

「すぐ、保険の話ばっかりするんですよ。普通、そんな話、します?」

それはおかしい、と僕もすぐ思った。行方不明になった夜のことである。

新井氏によると、山で行方不明になって7年が経過すると保険金がおりるそうである。とすると、保険金をねらった事件なのだろうか。

と、脇で話を聞いていた若い従業員が、

「あの日、僕は川乗山(かわのりやま)に登っていたんですけど、すごくいい天気で、風もなくて、遭難なんて考えられないですよ」

「あれは生きていますよ」

新井氏はまた言った。

 するとどういうことになるのだろう。僕は新井氏一行と別れてから、様々なケースを想像した。そもそも男は本当に登ってきたのか。これは遭難ではなくて犯罪なのだろうか。保険金をかけておき、下で殺害しておいて、山で行方不明になったという話を捏造(ねつぞう)したのだろうか。とにかく様々な可能性が考えられる。不思議きわまる行方不明であった。

 

 新井氏は山における死についても語ってくれた。

「死にに来る人は多いですよ。たいていは分かりますねえ」

 新井氏によると、自殺を企てようという人間は、山小屋の前を何度も行ったり来たりするそうである。ためらっているのだろう。そういう時は声をかけるという。

 僕も普通ありえない場所、時間帯に山中を一人歩きしている老人に何度か行き会い、びっくりしたことがある。また、時々山中で、写真や服装、装備の説明書きを添えて、行方不明者を探す家族の掲示を見かけるが、それが遭難なのか自ら姿を消したのかは、他人には誰も分からない。人知れず山中に眠っている人は多いのである。

 

 最後にちょっと脱線するが、あの七面倒くさい評論を書いた小林秀雄も雲取山に登っている。おそらく親友である『日本百名山』の著者、深田久弥の影響だろう。僕は小林の登山紀行を読んでびっくりした覚えがあるが、正直なところ、小林の山の文章はあまり面白くなかった。

 とにかく昔の文学者はよく歩いた。あの鶴のように痩せた芥川龍之介までが槍ヶ岳に登っている。よくそんな体力があったものだと感嘆してしまう。よく歩くということと、彼らが達成した文業の大きさは密接に関係していると思うが、どうだろう?