東京の夢・江戸めえたか

 

                                     更新日:2015年3月28日

作家 丸山修身

 

 先日3月14日、北陸新幹線が金沢まで延伸開通した。これにより、首都圏から金沢、富山方面は日帰りも可能となった。観光業者の期待はとりわけ大きいに違いない。今更ながら、交通手段の変遷が社会、暮らしに与える影響の大きさに思いを致さずにはいられない。

 僕の出身地、北信濃飯山にも一部新幹線が停まるということで、地元はお祭り気分で沸き立っているようだ。東京に近づくということは、それだけでたまらなくうれしいに違いない

 

 東京―それは少年の頃の僕にとって、単なる首都の一都市ではなかった。それは夢と希望にあふれる別天地であり、暮らしも文化も風俗もすべて良きものは東京からやってくるように思われた。

 僕は思い出す。村から東京に就職して出ていった者が、家族を連れて盆などに帰ってくる。東京の少女はなんと美しかったことだろう。垢抜けして利発そうで、どの女の子も、子役スターのようだった。男の子は髪の毛を伸ばし、清潔そうな服をきりっと着て、すごい秀才に見えた。それはすべてにおいて僕達の村の少年少女と異なっていて、人間と猿の違いのようにさえ思われた。

 兄や姉も行っているトウキョウ、僕も早くそこへ行きたかった。現実を知らない深い山奥の少年は、一方的に片想いの夢想をつのらせていたのである。

 

 東京への特別な憧れーこれはどうも最近のものではないらしい。というのは僕の村に「江戸めえたか」という子供達の遊びがあったからである。「めえたか」は方言で、共通語では「見えたか」、つまり「江戸が見えたか?」と問いかける遊びである。江戸、とあるから、江戸時代から続いていることは間違いない。

 これについて、同じ信州の佐久出身の作家・井出孫六氏がびっくりすることを書いているので、そのまま紹介する。

 

 ちへいせん、というものがあることを知って、ちへいせん、に恋いこがれていた子どものころ、叔父がわたしの頭を両手で挟んで宙に吊し、「東京見えたか、大阪見えたか」と、よくからかったものだ。信州は、日本の屋根にたとえられる。……七つの盆地からなる日本の屋根だ」(『山の貌』 新樹社刊)

 

 これを読んで僕は驚いた。まさに「江戸めえたか」ではないか。この遊びが、まさか遠く離れた佐久地方にもあったとは。井出氏の文を敷衍(ふえん)して、もう少しこの遊びを説明する。これは年上の兄か叔父が年少の者にする遊びで、ある程度体格差がないと出来ない。力を使うからだ。

 先ず幼い方が前に立ち、二人そろって東京の方角を向く。それから、後ろの年上の者が、前に立つ相手の頬っぺたを両掌で強く挟んでぐっと自分の頭より高く持ち上げ、「江戸めえたか(見えたか)?」と独特の抑揚で問いかけるのだ。もちろん周囲は山また山の連なりであるから、江戸など見えるはずがない。それでも「めえた、めえた(見えた、見えた)」とうれしそうに答えることになっている。首の関節ががくっと外れそうな危険な感覚がたまらなくうれしいのだ。身内以外にやらないのは、子どもながらに危ないことを意識しているからである。してもらう方は頬の皮がひどい面相によじれ、おかめよりもひどい顔となり、周りの者が大笑いする。

 今の世でもし親がこの遊びを見たら、その危険さに仰天し、思わず金切り声をあげるのではないか。なにしろ子供の細い首だけで体重を支えているのだから。

 

 この「江戸めえたか」という遊び、どういう動機で生じたのだろう。それにつき、僕が一つの考えをはっと思いついたのは、旧中山道を歩いた時だった。もう十数年前になるが、僕は駅弁「峠の釜飯」で有名な信越本線横川駅を出発点にして、旧坂本宿をたどり、碓氷(うすい)峠頂上の熊野神社まで一人で歩いたのだった。さらに峠を越えて下ったところが、有名な避暑地、軽井沢である。

 ちょっと脱線するが、この時僕は、碓氷峠の麓、旧坂本宿の八幡宮で実に奇怪なものを見た。ヒキガエルの狛犬(こまいぬ)である。何度も見直したが、飛び出た目玉、大きな口、脚や背中にはイボイボまでついていて、間違いなく犬ではなくヒキガエルであった。いったいどういう由来があるのだろう。

 約17キロ、標高差800メートル以上の登りを5時間ほどかけて歩いたが、途中誰にも行き会わず、静かで快適な旧街道歩きで、鼻歌もでた。この山道は、公武合体政策により、京都から江戸幕府第十四代将軍・徳川家茂に嫁ぐ皇女和宮も通った道である。当時は東海道と並んでメインの国道みたいなものだったから、多くの様々な身分の人が通行したはずである。当時の賑わいを物語るかのように、道ばたに石仏や石碑が非常に多い。途中で命を落とした人も多かったことだろう。

 

 僕はふっと、むかしの出稼ぎ者もこの道を歩いたのだな、と思った。僕の村からも、若い者は、冬ほとんど江戸へ出たはずである。何もしないで飯だけ食うなどということは、とても許されない生活環境であったから。とすると、僕の遠い先祖も、草鞋(わらじ)を履いて、この道を江戸へ歩いたのだ。

 その時だった。僕はふっと「江戸めえたか」に思い至った。「江戸めえたか」の由来は、出稼ぎではないのか。郷里で「江戸めえたか」をやることにより、はるばる江戸へ稼ぎに出て行った兄達を偲(しの)んでいたのではないか。しきりに思い出しては無事息災を祈り、帰りを待ちわびたのではないか。

 

 江戸時代、冬きびしい信州からはさかんに出稼ぎが行われた。「信濃」、「しなの者」、「おしな」、などといえば、江戸では大飯食らいの代名詞であった。その背景にはもちろん、生活の厳しさ、貧しさがあった。その大飯ぶりを詠んだ江戸川柳を紹介しよう。

 

食い抜いて 来ようと信濃 国をたち

わずらって 人並みに食う しなの者

こどころ(小さい店)で しなのを置いて 食い抜かれ

人並みに 食えばしなのは 安いもの

 これらの川柳は説明もいらないだろう。

美しい流人 大飯食いになり

 これは大奥の勢力女中・絵島(1681-1741)のことをいっている。七代将軍・徳川家継の正徳四年(1714)、大人気の歌舞伎役者・生島新五郎と密通したとされて、信州南部、伊那地方の高遠藩に流罪となったのだ。大奥の楚々たる美女も、大食いの本場、信濃にいったからにはさぞ大飯食らいになったであろうという。

 かなり昔になるが、僕は高遠外れの山中の一軒宿、山室鉱泉に泊まり、近くの遠照寺で絵島の分骨墓を見たことがある。晩年、比較的行動の自由を許された絵島が、時々住職のもとにお茶を飲みに訪れたと聞いた。注意して探さなければ見つからない小さな質素な墓石であったが、誰が手向けたか、底冷えする晩秋の中、野の花や菊がそっと供えられていたのが非常に印象的であった。

 

 江戸めえたかー兄達が江戸で田舎者ぶりを揶揄(やゆ)されている時、その山深い郷里には、文字通り抜けるほど首を長くして、その帰りを待ちわびている幼い弟や妹がいたのである。

 昔の江戸、東京は遠かった。今アメリカに行くよりも、ずっと遠かった。