虫・沈黙の春
更新日:2015年3月3日
作家 丸山修身
先日マスコミで、一つの景品表示法違反のニュースが流れた。「屋外虫よけ剤表示に根拠なし」というもので、アース製薬、フマキラーなど4社が消費者庁から措置命令を受けた。
僕は使ったことがないが、ベランダや玄関先、軒下などに吊しておくと中に蚊や小バエなどの虫が入ってこない、という宣伝文句だったのだろう。これはちょっと考えれば、おかしい、とすぐ気づくはずである。例えば風が吹いたらどうなるのか。完全な無風ということは外ではありえない自然現象である。
このニュースに接して僕が先ず感じたのは、そう虫を毛嫌いしなくてもいいではないか、ということだった。刺される時は刺されたらいい。自然のことではないか。蚊なんぞ、なんということはない。
僕は虫が好きなのだ。そもそも山奥の農村に生まれ育ったので、いちいち、キャー、などと都会のお上品な女みたいに虫におびえていたら、とても生きてはいけなかった。虫と共生していたのである。
虫のいない世界がどんなに怖ろしいか。アメリカの女性生物学者レイチェル・カーソン(1907-1964)に、『沈黙の春』(Silent Spring 1962)という環境問題の名著がある。彼女は不気味に静まりかえった、異様な春の描写から本を書き始めている。春たけなわなのに、野鳥のさえずりがまったく聞かれないのだ。こうなった理由は、化学工場が生産する農薬によって、鳥の餌となる虫が死滅したからである。これは著者が作り出した架空の異常な世界なのだが、『沈黙の春』は、環境保護の先鞭をつける歴史的名著となった。
虫は生態系の根幹をなす、絶対に重要な生きものなのだ。
虫を極度に毛嫌いすることー僕はそこに人間、特に現代日本人の劣化を見ている。振り返って考えていただきたい。かつて我々の周りには、何と豊かな虫にまつわる言い回しが溢れていたことだろう。
―「虫が好かない」、「虫のいどころが悪い」、「虫酸がはしる」、「虫がつく」、「虫も殺さない」、「虫がいい」、「虫が知らせる」、「虫の音(ね)」、「本の虫」「泣き虫」「虫の息」、「腹の虫がおさまらない」、「飛んで火に入る夏の虫」「蓼(たで)食う虫も好き好き」等々。
虫を決して敵と思っていない。仲間のように慈しんでいる。僕はそこにしみじみと生命の味わい深さを感じるのだ。
僕も虫が好きで、ドクトルマンボウの北杜夫ほどの昆虫少年ではなかったが、昆虫採集をさかんにやり、アリをビンで飼って巣をつくる様子を観察した。今でも気持ちがひどく落ち込んだ時、じっと身近な虫を見る。虫はどんな時も黙々と働いている。その姿を眺めると、心が癒されるのである。つくづく、虫はえらいなあ、と思う。
虫を好きになるこつは名前をつけてやることである。家の中ではハエトリグモをよく見かける。みなさんもご覧になったことがあるはずで、大きさは八本の脚をいれても1センチぐらい、ピョンピョンと蚤みたいに飛び跳ねるのが最大の特徴で、目玉は左右対称に八つある。
僕は机の上に寄ってくる全てのハエトリグモを、「クモスケ」という名で呼んでいる。クモスケ、クモスケ、とやさしい猫なで声で呼びかけると、うれしそうに飛び跳ねるのが不思議だ。これはもちろん僕がそう感じるだけで、クモスケは関わりなく動いているだけである。それでも気持ちが通じたようでうれしいのだ。
そんな愛しい虫であるが、ファーブルの『昆虫記』を集英社より新訳した仏文学者・奥本大三郎によれば、フランス人には虫の鳴き声は、うるさい騒音にしか聞こえないのだそうだ。僕はこれを知って驚いた。
スズムシの「リーン、リーン」という腹にしみ通るような澄んだ鳴き声、コオロギの「コロコロ、コロコロ」という忍ぶような鳴き声を耳にすると、僕はしみじみと、ああ、夏も終わりだなあ、いよいよ秋だなあ、と季節の移ろいに感じ入るのだ。
奥本氏は、こういう日本人の繊細な感受性は、物づくりの巧みさと密接に関係していると書いていた。そうだろうと僕も思う。伝統的な工芸品は言うに及ばす、現代の工業製品においても、感性の違いは大きく製品の出来栄えに影響する筈である。微妙なところが勝負なのだ。虫に対する感受性は、日本人の最大の特徴の一つかもしれない。
『昆虫記』は厖大なページ数の本だが、神秘と驚きに満ち、僕の永遠の愛読書である。
虫は日本の文学でも盛んに取り上げられてきた。平安時代後期の『堤中納言物語』には「虫愛(め)ずる姫君」が登場する。この姫、蝶が大好きなのだが、その蝶に変身する毛虫を好んで飼っている。カマキリやカタツムリも大好きで、周囲が虫を嫌うのにも負けずに自身を貫いて、女版ファーブルとでも呼びたい立派な姫であった。当時僕が生きていれば、好きになったかも知れない。とにかくユニークで、一読忘れがたい印象を残す物語である。
また近代では、例えば尾崎一雄の短編の名作『虫のいろいろ』がある。ある日主人公は、「チゴイネルワイゼン」のレコードを鳴らすとクモが壁の隙間から姿を現すことを発見する。主人公の眼からすると、音楽に合わせて踊っているように見える。他の音、曲ではだめで、「チゴイネルワイゼン」だけに反応するのだ。これは生物学的にいえば、クモの餌である蚊やハエの羽音の周波数と曲の周波数が一致するからだろう。
主人公は次第にクモに親愛感を抱くようになっていく。クモ、ノミ、ハエなど小さな生きものを愛おしさをもってじっと見つめていることが、この作品の最大の取り柄である。こういう眼差しを、我々は失って久しいのではないだろうか。
そんな精妙な観察者の尾崎であるが,他の作品では実は間違いも書いている。小説のタイトルは思い出せないが、それはヤモリが餌をとる場面だった。尾崎は、ヤモリが舌をすっと伸ばして獲物を捕らえたと書いているが、これは間違いである。ヤモリはカエルのように長い舌で捕獲することはしない。ぱっと飛びついてかぶりつくのである。
しかしこういう些細な間違いは、だれでもふっと犯すことであり、尾崎のユニークな文学の価値を減ずるものではない。僕など、顔面が焼けるような恥ずかしい間違いはいくつもある。まさに「過つは人の習い 許すは神の業」(A.ポープ 1688-1744)である。
今年もまた暑くなれば、デング熱で大騒ぎするのだろうと考えると、気分が憂鬱だ。おそらく代々木公園や新宿中央公園、新宿御苑などでは大々的に消毒が行われるだろう。そこで死ぬのは感染源の蚊だけではない。他の多くの虫達も命を落とすのだ。
「沈黙の春」、「沈黙の夏」にならないことを僕は願っている。