婿の悲しみ
更新日:2015年1月31日
作家 丸山修身
前回は「嫁の悲しみ」について書いたので、今回は「婿(むこ)の悲しみ」である。
昔は「粉糠(こぬか)三合持ったら、婿にいくな」という俚諺(りげん)を時々聞いた。粉糠、つまり玄米を精白した時にでる表面の殻のことで、ぬか漬けの床にするあれである。それだけ僅かな持ち物、財産がもしあったなら、ムコになんぞいくな、という教えで、婿の辛さを言っている。嫁が姑(しゅうとめ)を常に意識するように、婿に重圧となってのしかかるのは、妻の父親、つまり同性である舅(しゅうと)である。
実は僕の父親が、数え年16歳で隣村からやってきた婿養子であった。そして僕自身にも、11人兄弟の末っ子で8男ということで、若い頃、婿養子の話がいくつ持ち込まれた。その時僕は、父親の人生を一つの鏡として見て、婿とは社会、家庭にあってどういう存在なのだろうと考えたものだ。
話は飛ぶが、婿の立場を示すものとして、強く僕の記憶に残るテレビ時代劇がある。1970年代の終わりから1980年代初めにかけてテレビ朝日系列で放送された、藤田まこと主演『必殺仕事人』というシリーズ番組である。これはまさに主人公が婿であることを売りにした時代劇であった。
この番組、現在また「テレビ埼玉」で再放送されているので、僕は時々これを見る。藤田演ずる奉行所の下っ端同心・中村主水(もんど)は婿で、家では姑や妻にからきし頭があがらない。しかし、普段は全くうだつのあがらないこの男、実は裏の顔をもっている。それは無実の罪をきせられて恨みを残して死んでいった者に代わり、隠密裡に仇討ちを果たすというものである。その殺しっぷりが、まさに一撃必殺、実に鮮やかで爽快なのだ。普段の冴えないしょぼくれ方とはなんという落差だろう。そこがこの番組の最大の味噌である。
ところがこの無類に強い婿、秘密稼業を果たして家に帰ると、姑と妻にまったく頭が上がらないのだ。裏を全然知らない姑と妻に、毎回いびりを受け、貧しいものを食わせられる。特に菅井きん演ずる姑に、「婿どの!」と些細なことでとっちめられる場面は、まさに『水戸黄門』の最後の印籠(いんろう)と同じで、作品のポイントとなっている。
つまり主役が婿でなければこの番組は成立しない。当時の婿に対する世間一般の通念を反映している訳だ。まさにその点を狙って番組がつくられている。
不思議なことに、番組では子供も舅も登場しない。男一人、女二人の三人家族であることが救いになっている。婿という立場からして、もし舅が登場したら、笑いですませられない深刻な心理、状況となるからだ。その点は実によく考えてシナリオが書かれている。
考えてみると、婿に関する研究は嫁に関するそれと比較して、驚くほど少ない。自分が読んだものとしては、高群逸枝(たかむれいつえ)の『招婿婚(しょうせいこん)の研究』と、柳田國男『聟(むこ)入考』以外に思い浮かばない。高群逸枝のものは古典を資料として古代中世の婿入り婚を研究したものであって、近現代の研究からは外れる。また柳田國男の論考は、肝心のところ、何を言いたいのかよく分からない。これは柳田自身が婿養子であったからかも知れない。
とにかく婿に関する研究は 民俗学、歴史学、社会学、国文学等において、空白分野になっているように僕には思われる。誰か若い人が、本格的に探求しないだろうか。すれば必ずや画期的な研究として注目をあびると僕は思う。
父が数え年16歳で婿にくる話が持ち上がった時、当然のことながら、周囲はあまりに若すぎることを心配したそうだ。すると舅にあたる祖父は、「自分が抱いて寝るから心配しないでいい」と言ったという。抱いて寝る、はもちろん「大事にする」という意味だが、父の方は何を思っただろう。
これは伝え聞いている話だが、当時の僕の田舎では、婿にとるといってもすぐ籍を入れる訳ではない。しばらく家において務まるかどうか様子をみたらしい。務まらないと判断すれば、実家に戻す訳である。しかし父の場合は祖父のお眼鏡にかなったらしく、婚礼の式次第や、出した料理、参列者の名を記した和綴じの冊子が残っている。もし婿にこなければ、父はブラジルに移民として渡ることを考えていたそうだと長兄から聞いたことがある。
じいさん(祖父)は僕が生まれる直前に死んだが、道楽者で、農家でありながら、兄たちは百姓をしているのを見たことがないという。そして3時頃になると毎日湯豆腐で晩酌をしていたということだ。暑い頃には孫たちにうちわで煽がせながら、時々湯豆腐を分け与えたという。また何を思ったか、上京した折に帝国ホテルに泊まり、田舎者ぶりを丸出しにして、ボーイさんを悩ませたそうである。それは我が家代々の笑い話になっている。
じいさんは飯山の町で材木屋を始めたそうだ。しかしどう考えても商才があったとは思えず、案の定、借金をためて材木商売は終わった。その尻ぬぐいをしたのは僕の両親である。とにかく身を粉にしてよく働いた。
兄弟が集まると、ふっと父親の一生に話が及ぶことがある。そして一致して言うのは「おやじは軍隊にいっていた時が、家の重圧がなく、いちばん幸せだったのではないか」ということである。というのは、兵隊時代の写真がいちばん晴れやかな顔で、しかも太っているのだ。
父は二回招集を受けているが、一回目は天皇直属の部隊である近衛兵であった。二回目は39歳の時で、満州に渡っている。この時すでに僕を除く10人の子供がいて、一番上の姉は満州で看護婦(現在は看護師)をやっていて、二人で一緒に撮った写真が残っている。こんな兵隊はそうはいなかったことだろう。
こういう老兵までも掻き集めなければならない状況に立ち至った段階で、はっきりと戦争は負けである。家庭の事情と40歳になるという条件を陸軍も勘案したのだろうか、父は一年足らずで満州から家に戻ってきた。もしそのまま留まっていたら、どうなったかまったく知れない。一緒に風呂に入ると、肩胛骨(けんこうこつ)の窪みに湯をためては、これは鉄砲の弾に当たった痕(あと)だと言って幼い僕を煙に巻いていた。
僕の場合、父の婿としての生涯をみて何を考えたか。それは、もし婿にいったならば、自分が先頭に立っていちばん働かなければならない、自由気ままな生き方はもう出来ないな、ということだった。
最後に父についてびっくりしたことを一つ。あれは脳梗塞を患って入院して時のことであった。医師が、意識の回復程度をみようとして名前を訊ねた。すると父は、「ナカジョウツネジ」と答えたのである。「ナカジョウ(仲條)」は遙か昔、婿に来る以前の旧姓である。また住所も、飯山市ではなく「下水内(しもみのち)郡柳原村」と、ずっと昔のものを言った。
幼い頃の記憶は強いというが、それをまざまざと目の前に見て、僕は仰天したのであった。