安部公房・その光と影

 

更新日:2014年10月31日

作家 丸山修身

 

  安部公房という小説家、劇作家がいた。いや、いた、などと言ってはいけない。安部公房は、今でも日本文学に屹立するかけがえのない作家である。いた、などと思わず口走ってしまったのは、かつてのノーベル賞候補とも噂された名声に比べ、今ではあまりにも取り上げられることが少ないからだ。
 今回安部公房を書こうと思い立った訳は、最近、女優山口果林の『安部公房とわたし』(講談社)という本を読み、さまざま考えることがあったからである。

 安部は、劇作家・演出家として、昭和48年(1973)からおよそ六年間、「安部公房スタジオ」を主宰した。山口果林は、安部公房劇団の看板女優であり、かつ安部の愛人でもあった。いや、愛人、などという言葉は下卑ていていけない。ここでは、「不倫も貫けば純愛となる」という瀬戸内寂聴の言葉にしたがって、恋人、と呼んでおこう。
 山口果林は昭和46年(1971)にNHK朝の連続テレビ小説『繭子ひとり』で主演し、お茶の間にも広く顔を知られた人気女優であった。彼女の本を読んで驚いたのは、二人が男女の関係になったのは、劇団を旗揚げする前だったことである。桐朋学園大学演劇科の教師と生徒という間柄から始まったのだ。「山口果林」という芸名を考えたのも安部公房であった。(本名 山口静江)
    NHKで主演する直前に、山口果林は安部の子供を身ごもって堕ろしている。また本には、山口がマネの名画『オランピア』にそっくりのポーズで、ヘアもさらしてベッドに全裸で横たわるカラー写真も掲載されていた。楽しそうに微笑んでいて、撮影者は記されていないが、安部公房以外に考えられない。

 さて、ここからは僕の直接の思い出に移る。「安部公房スタジオ」が旗揚げしたのが昭和48年(1973)、その第一作は『愛の眼鏡は色ガラス』であった。調べると、出演は山口果林、仲代達矢、井川比佐志、田中邦衛、新克利、とそうそうたるメンバーである。
    劇場は完成したばかりの渋谷西武劇場(現在のPARCO劇場)で、華々しくオープニング公演を飾ったのであった。文化活動にも熱を入れていた当時の西武百貨店社長・堤清二(辻井喬)が、まるで安部公房のために特別にお膳立てしたかのように感じられたものだ。
 マスコミではたいへんな評判で、僕も当然、強い関心を抱いて観にいった。席がなかなか取れず、やっと手に入れたのは、最後部でいちばん左側の席であった。

 とにかく役者がよく動いた。それが、真っ先に受けた印象である。ドタバタドタバタ、舞台狭しと飛んだり跳ねたりしている。せりふ回しが早口で何を言って いるのか聴き取れない。僕はすぐ、ああ、これは言葉よりも肉体重視だな、と気づいた。そして、これは三島由紀夫を強く意識しているな、と考えた。つまり、 絢爛(けんらん)たる言葉を駆使する三島演劇に対するアンチテーゼ、対抗心である。言葉よりも肉体を、ナショナルな理解からインターナショナルな理解へ、 過去よりも未来、伝統より前衛。そう安部が主張しているように感じられた。

 20分か30分経過した時だった。僕の背後の扉がすっと開いて、人が入ってきた。そのままじっと立ち見をしている。けげんに思って僕は後ろを振り返っ た。と、それは井上ひさしであった。しばらくすると劇場の関係者が入ってきて「椅子をお持ちしましょうか」と訊ねた。すると井上ひさしは「いえ、いいです、いいです」と断って、左隅の壁に寄りかかるようにしてじっと舞台を観ていた。
 僕は、ああ、井上ひさしは舞台の構造を観察しにきたのだな、と思った。たしかこの西武劇場で、次は井上の『薮原検校(やぶはらけんぎょう)』がかかることに決まっていたはずである。
    実際に役者がどのように動くか、音の響きなど、舞台の使い具合を自分の目や耳で確かめたかったに違いない。
 井上ひさしは一人で10分ほど観ていて、ふっと出ていった。

 正直のところ『愛の眼鏡は色ガラス』は面白くなかった。第一に、いったいどのような筋立てなのか、ほとんど理解出来なかった。激しく動き回りながら、せりふ回しが、意図された異様な早口であった。それでも劇評はおおむね好評であった。僕はその時、劇評というものは何といい加減なものだろう、と思った。
 振り返って考えると、安部公房はこの頃が全盛であった気がする。海外、特にソ連や東欧などの社会主義圏で評価が高く、ほとんど三島由紀夫を凌ぐかのよう な勢いであった。当然二人はライバルとして、お互いを強く意識していたが、目指す方向はまったく対照的であった。しかし仲は良く、三島の死後、三島君との 対話は楽しかった、と安部がしばしば語っていたと山口果林は書き留めている。三島も安部に対して、「もしも、クーデターが起きて反対勢力を捕えることに なっても、安部君だけは家の地下室に匿(かくま)ってやるから心配しないでいい。そのかわり小食になっておくように……」と冗談を言っていたという。

    僕が安部公房を面白いと思って読んだのは、『箱男』(1973)まで。次の書き下ろし長編小説『密会』(1977)となると、読むのが苦痛であった。何 よりも、面白くない。面白さ、にも様々あるが、とにかく、面白くない。だいいちに、作者が書くことが苦痛で仕方がない様子がほの見えた。膨らみも潤いも欠 け、無味乾燥のぱさぱさした印象だけが残った。安部特有のユーモアもなかった。
    衰えたな、というのが実感であった。いったい安部公房はどうしたというのか、と僕はいぶかったものだ。次の長編『方舟さくら丸』(1984)となるともっといけなかった。その凋落は痛々しいばかりで、水が涸(か)れた井戸になったと感じた。
    今になって分かる。山口果林との秘めたる愛。修羅となった夫人との家庭問題。それが影響しなかった訳がない。もしかしたら、ノーベル賞を意識したことが悪かったのかもしれない。しばらくして癌を発病した。
 
    それでも僕は、安部公房は日本文学に屹立する貴重な作家だと考えている。安部公房がいたおかげで、どれほど多くのことを学び、考えたことだろう。演劇における言葉と肉体の関係。単なる言葉の意味を超えた、全体的な理解という問題。総合芸術としての演劇。国家とは? 都市とは? 伝統とは?
    
    最後に僕が好きな安部作品について。短編(掌篇と呼んだ方が正確か)では断然『赤い繭』。長編では、世評が高かった前衛的な『砂の女』や『燃えつきた地図』、『他人の顔』よりも、『榎本武揚』を好む。巧みな比喩、粘り強く明晰な言葉遣い、絶妙な細部、すぐれた言語感覚。とにかく面白い。
    それと僕は無名時代の初期作品がとても好きだ。『名もなき夜のために』、『薄明の彷徨』、『終りし道の標べに』などの諸作である。小説としては未熟だ が、安部の美質がくっきりと出ている。詩も書いた安部の、若く傷つきやすい感受性、瑞々しい硬質の抒情、物心の飢餓感、時代を覆っていた貧しさの感覚、が底流となって流れている。
    アベコウボウーそう呟くと、自分が若かった時代がまざまざと甦るのである。