これも世界遺産に・足尾銅山跡
更新日:2014年8月22日
作家 丸山修身
今年6月末、群馬県富岡製糸場が世界文化遺産に登録され、地元が喜びに湧いた。僕には常々、これも世界遺産になってほしい、と願う場所、施設がある。それは栃木県の足尾銅山跡である。
足尾銅山については、みなさんも学校の授業や、テレビ、新聞などで、ある程度の知識をお持ちのことだろう。最盛期、日本の銅のほぼ4割がここから産出された大銅山であった。近代日本における公害の原点といわれ、田中正造の天皇直訴をふくむ激しい反対闘争で知られる。
田中正造は闘争の過程ですべての財産と家庭を失った。死んだ時の財産は信玄袋ひとつだけ、それでも葬儀には数万人の参列者があったという。僕はつねづね、栃木県出身の友人知人に、「明治以来、栃木県が生んだ最大の偉人は田中正造だと思うよ」と言っている。
富岡製糸場と異なって、これはいわば負の遺産である。しかし足尾は日本人がずっと記憶すべき価値と義務がある遺産だと僕は考える。水俣も同様だ。人間の おかした過ち、愚かさを、ずっと記憶し続けること、それもまた人間の大いなる叡智(えいち)というべきではないか。
僕が初めて足尾を見たのは、若い頃、日光・男体山に登った時だった。僕は中禅寺湖畔から二荒山神社中宮祠を通り抜け、登り始めた。緑の中に、シロヤシオツツジの白花がたくさん咲いていたから、5月末か6月初めのことである。
かなり登ってきて、ふっと後ろを振り返った。僕は遠方にひろがる異様な眺めに思わず息をとめた。中禅寺湖の向こうに、荒涼たる茶色の禿げ山がずっと続いて いたのである。春爛漫(らんまん)の季節だというのに、これはいったいどうしたことか。訳が分からず、僕はしばし茫然と彼方を眺めやるばかりであった。
はっと気づいた。あれは足尾ではないのか。方向からして足尾以外に考えられない。山並みを一つ挟んではいるが、距離は日光のすぐ近くなのだ。登山地図と磁石で確認すると、はっきりと足尾であった。その無惨な山の眺望は、僕の心を刺した。
以来、足尾は僕の心を離れたことがない。ふっと訪ねるようになったのはそれ以降である。
足尾銅山について簡単に説明すると、明治中期、銅山の発展に伴い、精錬時に発生する亜硫酸ガス、排煙、毒水により、壊滅的ともいえる公害が引き起こされた。銅山を経営したのは古河市兵衛、後の古河鉱業の創業者である。
鉱毒を含む排煙で周辺の山の木が枯れた。僕が男体山の山腹から眺めたのは、その無惨な100年後の姿であった。また渡良瀬(わたらせ)川に毒水が流入 し、下流の田や魚が汚染、死滅した。鉱毒を沈殿させるため、下流に広大な遊水池がつくられ、ここにあった谷中(やなか)村は消滅、農民が土地と住み処を 喪った。
その渡良瀬遊水池は今では見事な葦原となり、野鳥観察の名所となっている。みなさんもテレビなどでご覧になったことがあるのではないか。
群馬県桐生駅から乗り込んだ、わたらせ渓谷鉄道(旧JR足尾線)は、渡良瀬川に沿って、険しく美しい渓谷を一時間半ほど分け入り、終点・間藤(まとう) 駅に到着する。降り立って周囲の山景色を眺めた瞬間、人は異様な世界に踏み込んだことを実感するはずである。周辺の山にほとんど木がないのだ。
もしみなさんが足尾に行かれることがあったら、ここから奥をしばらく歩き回ってみるとよい。渡良瀬川の渓流にそって駅から30分ほど奥に遡ると、川向こ うの高台に、高さ45メートル、巨大な精錬所の煙突を見る。禿げ山を周囲に見るせいか、悪魔の塔がそそり立っているように感じられる。
そのちょっと上流に、龍蔵寺という寺がある。この寺には独特の雰囲気が漂っている。毒をふくむ排煙によって最初に廃村となった奥地、旧松木村の墓石と石 仏が、ピラミッドのようになってびっしりと一つに組み上げられているのだ。このような無縁石塔を僕は他に見たことがない。また裏手には、ここで命果てた渡
り坑夫たちの墓が林立していて、普通の墓地とは違った、はかなさ、無常観のようなものが濃密に立ち籠めている。
渓流に沿ってさらに奥に歩いていく。すると、わずかな平地に住宅跡がある。びっくりするのは、住宅と住宅の間に築かれた、3メートルぐらいの高さの防火 壁、黒レンガの塀である。庇(ひさし)を接するように建ち並ぶ山中の鉱山住宅で、最も警戒されたのは火事であった。厚くがっしりと組まれて建っていて、い かに火が移ることを恐れていたかが分かる。
廃墟でありながら、すべてが実に人間臭い。僕にとって、滅びたものほど強烈に生命感を掻き立てるものはない。この山深い谷間に、かつては4万人近い人々 が住み、学校、神社、商店、飲み屋、映画館、劇場などの賑わいがあったのだ。その暮らしの中には、様々な喜びや悲しみがあったはずである。それが今、すべ
てを喪い、裸体のようになって身をさらしていると感じられるのだ。
さらに歩いて上を見上げると、ずっと山の上に頑丈な鉄索(てっさく)が引かれ、急傾斜の山腹で人や重機が動いている。喪われた緑を回復させようと、治 山、自然回復活動をやっているのだ。木が枯れて山肌から土が流出し、岩がむき出しになったため、根がつかない。そこで先ず、岩肌に土を張りつける必要があ
る。そのため、傾斜がきつい山腹に段状に棚を組まなければならない。木や草の本格的な回復はその後のことになる。
気の遠くなるような作業である。僕はもう生きてはいないが、100年後、200年後、果たして足尾の山に緑は甦っているだろうか。
それにしても足尾の川の澄んだ美しさは独特のものがある。かつて村々があった上流に人が住んでいないので、碧(あお)みを帯びて澄みきっている。日本で 最も美しい渓流の一つではないか。このように美しく感じられるのは、背後に悲劇を秘めていることを知っているからだろうか。
それと、もう一つ眼をひくのは、そこここに残る石垣の素晴らしさである。しっかり組まれた石垣は、簡単には崩れないものらしい。巧みさが際立ち、整然と していて、とても美しい。かつて日本に、「石垣の文化」とでも呼ぶべき石工による伝統技術があったことを知るのである。
とにかくここには見るべきものがたくさんある。僕は近在の小中学校の遠足は足尾に行ったらいいのではないかとさえ考えている。
足尾や水俣が世界遺産になる日が、いつか来るだろうか。登録をユネスコに働きかけたら、どんなに素晴らしく、誇りをもてることだろう。日本人の真の意味での民度が問われている。「福島」も、いつの日かは……。僕はその日を夢見ている。