卑屈語
更新日:2012.6.11
作家 丸山修身
この度、カンパニーのホームページに文章を書くこととなった。それに当たっての基本方針だが、大体月に一回程度、字数は400字詰め原稿用紙で三枚から五枚程度を考えている。肩の力をぬいて、身近な話題を楽しく取り上げていきたいと思っている。とにかく面白くよんでもらうのが、最大の目標である。
先ず初回は言葉の問題である。日本語の敬語には、尊敬語、丁寧語、謙譲語の三種類がある。これはみなさんも、中学高校の文法の授業でさんざん習ったはずである。
尊敬語の代表は「…れる」「…られる」で、例えば、行く、が「行かれる」となる。
丁寧語は「行きます」というように丁寧に言うもの。
謙譲語は、自らがへり下って相手を上位に置くもので、行く、が「うかがう」となる。
最近僕は、以上の三つに加え、もう一つあるのではないかと考えるようになった。それが「卑屈語」である。これは今まで誰も使っていない僕の造語だが、「…させていただく」という言い方がそれに該当する。
この言葉が今のようにしきりに使われるようになったのは、ほぼ十年ぐらい前からと記憶する。これを多用するのは主に政治家である。特に目立つのは、民主党では鳩山由紀夫元総理、自民党では石原伸晃現幹事長である。みなさん、テレビで見ることがあったら、耳を傾けていただきたい。「させていただく」のオンパレードだから。
これを聞いている側の心理反応にも特徴がある。語り手の真心や情熱がさっぱり感じられないことである。その例「…に応じさせていただきます」「…を作らせていただきます」
そうではなくて、単刀直入に、「…に応じることといたします」、「…を作ります」これで十分ではないか。無駄がないことがもっとも美しい。何をそんなにおもねって、卑屈になっているのか。僕がこれを「卑屈語」と呼ぶ所以(ゆえん)である。
僕は、ひどく甘ったるい下等な酒を飲まされて、悪酔いしたような気分になる。言葉だけが軽々しくおどっているのである。この言葉がむやみに使われるようになるのと比例して、政治の質が落ちていったように僕は感じている。
古来、日本には「慇懃無礼(いんぎんぶれい)」という言葉があった。慇懃、とはひどく丁寧(ていねい)なこと、つまり場違いなほど丁寧な言い方は、かえって無礼、失礼で、相手を見下すことになる、という意味である。
また「過ぎたるは及ばざるがごとし」という論語の教訓もある。やり過ぎは、やり足りないのと同じだ。これを敬語に当てはめれば、敬語の使い過ぎは、使い足りないのと同じぐらい悪い、ということになる。先人の知恵のこもった、実に味わい深い言葉ではないか。
僕はひそかに怒っている。言葉が死んでいる。おそらく政治家は、「卑屈語」を使って有権者をたてまつっておけば無難で、何かと有利だと考えているに違いない。連発する政治家は、あまりものを深く考える顔をしていない。どこか冷たい感じがする。持ち上げるように見えながら、実は見下している。そう感じるのは、僕の偏見だろうか。
言葉が活きるためには、より良く生きなければならない。より良く生きる、とは何か。それは個人個人が考えるべきことであり、便利な回答を差し出してくれる者は誰もいない。各自手探りで、失敗や惑いを繰り返しながら求めていくものだと思う。条件はみな同じである。年齢、性別、学歴、職業、などは関係がない。
初回に「卑屈語」の問題にふれたのは、言うまでもない、言葉は演劇の命だからである。ましてや、東北弁によって演じられるシェイクスピアは。みなさんが何か考える一助となってくれれば幸いである。
さて次回の題目は何にしようか。がらっと変わって、スポーツの話にしようか。旅の話にしようか。また、下館さんとの飲み屋の話、恋の話、考えることは様々である。