仙台・荒城の月

更新日:2013年10月25日

作家 丸山修身

 

   もう、二十年近く昔のことになるだろう。シェイクスピア・カンパニーの仙台公演をみた翌朝のこと、僕は列車の出発時刻を待って、ぼんやりと仙台の街で一人ベンチに座っていた。場所は、一番町通りを三越の方から歩いてきて、青葉通りを渡ったちょっと先、頭上がアーケードになっている商店街である。目の前に、たこ焼き屋があった。当時のカンパニー行きつけの飲み屋「焼き鳥・きむら」もこの近くだったと記憶する。仙台在住の方なら、ああ、あそこか、とすぐお分かりのことだろう。
    
    前夜、打ち上げでカンパニーのみなさんと大酒を飲んで、酔いも残っていたはずだ。ぼーっと木のベンチに腰掛けていた僕の耳に、突如、妙なる「荒城の月」の調べが大音量で鳴り渡った。僕は何事かと驚いて周囲を見渡した。すると、アーケードの屋根下でからくり時計の扉が開き、人形がゆっくりと動いているではないか。大きな音はそこから降っていたのだった。人形はキリシタンの服装をしていたから、伊達政宗によって派遣された支倉常長一行が、ローマの街を行進する場面だったのだろう。
    僕は全身が痺れたように感動して,しばらく天井を見上げたまま動くことが出来なかった。歌はなかったが、僕は歌詞をつけて聞いていた。
    
                    春高楼の花の宴 巡る杯影さして
                    千代の松が枝 分け出でし
                    昔の光 今いずこ
    
    音楽にこんなにも心を揺すぶられることはいつ以来だろう。なぜうっとりと身動きもならないほど感動したのだろう。その理由の一つは、本拠地元で聞いた、という意識があったからに違いない。
    「荒城の月」に関しては、多くの町がわが土地の歌として喧伝している。しかし僕の意識にあっては、「荒城の月」は断然仙台の名曲なのである。
    この歌は、土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲だが、土井晩翠が仙台の出身だということは、「晩翠通り」の道路名が何よりもはっきりと示している。また僕には個人的な思い入れもあった。大学時代の友人の家が土井晩翠の縁戚で、話をよく聞いていたのである。その家には、晩翠自筆の「荒城の月」全詩文の額がかかっていた。毛筆の見事な達筆であった。僕は訪ねるたびその額を見上げて、なんとなく晩翠を身近に感じていたのである。だから「荒城の月」は仙台にこそふさわしいと自然に思い込んだようだ。
    友人の祖父から、直接晩翠の話を聞いたことがある。大阪で衣料関係の商売をされている方だったが、朝、店を開けようとして前の道路を掃除していると、突然、タクシーが乗りつけ、立派な紳士が降り立ったという。そして、「土井ですが」と丁寧に挨拶されたということだった。
    そんな次第もあって、流麗で力強い「荒城の月」の額を見上げていると、晩翠という人の息づかい、肌触りのようなものが感じられたものである。
    
    世間には高名な詩人であった晩翠であったが、家族にとってはなかなか難物だったようだ。神経質で癇癪(かんしゃく)もちのところがあったらしい。それはそうだろう。一流の詩人はとても一筋縄ではいかない。性格に癖がある。もし誰からも、あの人は温厚な良い人だ、と言われるのであれば、それは三流エセ詩人ということになる。これは、僕の独断と偏見による意見であるが。
    晩翠の娘が嫁いだ相手が、著名な英文学者であった中野好夫で、中野は木下順二の師であり、また新潮文庫版『ロミオとジュリエット』の翻訳者でもある。
    中野も岳父・晩翠に関して面白いエピソードを書き残している。ある時、晩翠に、
「おとうさんの詩は、最近、衰えてきたようだ」
というような感想を言ったのだという。すると晩翠は、烈火のごとく怒って、
「お前のような俗物のひよっこに、詩なんか分かってたまるか」
と怒鳴られたという。それに対して中野は、
「いくつになっても詩人のプライドというものは衰えることがない。決して詩人に作品の悪口は言うものではない」という印象をもったと述懐している。
    中野も中野だ。そういうことは黙っていればいいのだ。中野は高雅な英文学者の風貌ではなく、怖ろしげなハゲ頭から、「叡山の荒法師」と呼ばれた。

    元に戻る。からくり時計は1時間に一回鳴るということだったので、僕は3時間ぐらい一番町通りを三越の辺りまでぶらぶら行ったり来たりして過ごした。そして時間になるとからくり時計の下に戻って、聞き惚れることを繰り返した。
    当日、何かの催しがあったようで、一番町の通りには露店がでて東北各地の物産が売られていた。僕は食べる菊の花を買って東京に戻った。兄の妻が山形県酒田市の生まれで、「もってのほか」という名前でよく食べたと聞いていたのだった。僕が買った菊は黄色の花弁であったが、庄内地方では紫花のものを食べるという。
    それまではニッコウキスゲとカンゾウの花しか食べたことがなく、菊がどんな味か、一度確かめてみたかった。ちょっと苦いのではないか考えていたのだが、ゆでて酢のものにすると、癖がまったくなく、あっさりとして食べやすいものであった。
    
    最後に東北線の旅について書く。僕は仙台を往復する際、急がない時は普通列車を乗り継ぐ。のんびり景色を眺めるのが大好きなのだ。特に至福を感じるのは、揺られているうちのうたた寝だ。これは僕に言わせれば、新幹線でさっと辿り着くよりも、はるかに贅沢で豊穣な時間である。
    東京から仙台に向かうと、福島を過ぎた辺りから、ああ、東北に来たのだな、としみじみと感じるようになる。風景では福島県から宮城県に入る辺りの、鄙(ひな)びた眺めを最も好んでいる。
    よく稔った田んぼ。黄金色、とはよく言ったものだと思う。左眼下のおだやかな白石川の流れ。その向こうには蔵王の山々が自分を迎えてくれるかのようにそびえている。懐かしい自分の郷里に帰ってきたような気になる。
    僕は仙台に来るたび、もう一度あの「荒城の月」を聞きたくて、あのベンチに座ってみる。しかしどういう訳か、二度と聞くことが出来ない。法悦境(ほうえつきょう)ともいえるあの時間は、もう二度と甦らないのだろうか。