遠い波涛、そして海へ騎りゆくもの(No.5 Spring 1996)

脚本 鹿又正義

  3月、春の雪が降りしきる日、「海へ騎りゆくものたち」の公演を終えた。わずか1
日ばかりの公演であったが、200人近いお客様に見ていただいた。地味な作品であるこ
とと私達の自身の力量の問題もあり、どのくらいのお客様にこの芝居をみていただけ
るのか、かなり不安であった。しかし悪天候にもかかわらず多くの人々に足を運んで
いただけたのは本当にありがたいことであった。

  この作品は日本での知名度は低いが、ヨーロッパでは19世紀アイルランド文芸復興期
の秀作と呼ばれ、「英語で書かれた最も美しい挽歌」とまで賞する批評家もいる。わた
しを含め、わたしたちの制作の道程はこの作品をいかに深く理解するか、その理解をい
かに表現するかということであった。バートレイを引き留めようとするモーリヤの息子
に対する感情、息子の母に対する感情、キャスリーンが届けられた兄の屍衣を母に隠そ
うとする感情、その感情の一つ一つが脚本に、その余白に緻密に書き込まれていること
に、わたしたちは気づいていった。

  誤解をおそれずにいえば、なによりもわたしたちが感じ取ったのはこの芝居のもつあ
る種の爽やかさであった。晩秋の胸をしめつけるような青さの乾いた空のような、泣き
つくしたあとの空虚な爽快感のようなものがわたしたちをとらえた。原題の'riders'と
いう言葉は[力と暴力]の象徴である馬に騎るものたちという意味も含むが、アイルラ
ンドでは沖の白い波涛のことを「白い馬」とも呼ぶ。そしてアラン島の漁師はカラハと
いう小舟を沖合に漕ぎ出すとき、白い波涛の上のカラハは鞍に見え、漁師は鞍にまたが
って白い馬を走らせる騎手となるのである。一方モーリヤは死んだ息子の亡霊を見てか
ら、泣くことをやめる。静かに人生を振り返り、運命の循環の中にいる自分を見いだす。
この作品の深みに存在する爽やかさは、この旅立つものと、それを見送るものの姿の対
比と融合にあるのではないかと思う。

  アラン島という特殊な地域の人々の生活はこの劇において普遍化する。わたしたちの
望みはこの劇が隣人である日本の東北地方の観客の心の中でさらに普遍化されることで
あった。その目標は達成されたか?やはりシングの劇はわれわれのはるか遠くを走って
いる。決して追いつけない、遠い沖合の白い馬の騎手のように、水平線の彼方を駆けて
いるのである。