ピーター・ブルックに会う(No.24 Summer 2001)

主宰 下館和巳

 先日、世田谷のパブリックシアターであのピーター・ブルックが『ハムレット』の
話をするというので、私は万難を排して上京した。1時間程のトークの間、最前列に
いた私はブルックの生の声を聞きながら、 アドレナリンが身体に溢れてくるのを感
じ、どうしてもブルック直に会いたいという思いに駆られた。
 会が終わるとすぐ、私は隣席にいた久保寺昌宏氏と、 無理をして舞台袖に進入し、
ブルックに面会を申し出る。 ブルックは、約束もしていない、顔見知りでもない私
たちを案外すんなり、あのニコッとした笑顔で受け入れてくれた。 警戒心も無く、
私たちに微笑んでくれたのは、トークの後すぐに私が質問をしたせいかもしれない
が (その質問はシェイクスピアの魅力は劇構造と登場人物のどちらにあるかという
ようなことだったが)、ブルックという偉大な演出家は不思議な人で、 どんな他人
でもスッと抱きかかえてしまうような力を持っている。 私はブルックの大きなやわ
らかい手に右手を握られたまま、「もう一つお聞きしたいことがあります。 今、私
は『お気に召すまま』の舞台を創っているんですが、もう一つこの芝居がわからな
いんです。 ブルックさん、一言でこの芝居を表現していただけませんか。」
 一言で、というのは、必ずしも無謀な所望ではないと思われたのは、 トークの中
でブルックが幾つかのシェイクスピア作品の芯のようなものを 15秒程で見事に表現
していたからである。 ブルックは「タイトル通りですよ。アズユーライクイット」
と言って、微笑みを見せた。私は、「そうですか、それでいいんですね。」と言っ
たような気がする。
 ブルックがその言葉で何を言おうとしたのか、実は定かではない。が、私は、な
ぜか、私たちの方法を肯定されたような気がして嬉しかった。 仙台に帰る新幹線の
中で、私は大学に入学したばかりの頃、演劇部の先輩たちが語っていたブルックの
あの 『夏の夜の夢』の話を、その頃たまたま読んだ芥川比呂志の 『決められた以
外のせりふ』の中の一節を、そして、ケンブリッジの実験劇場で語り合ったブルッ
クの高弟、 笈田勝弘氏のことを思い出して、熱くなった。
 芥川は、ジャン・ルイ・バローの楽屋で、 ブルックに初めて会った時のことをこ
う書いている。 「先客がある。黒い服を着た小肥りの、血色のよい、中年の紳士
である。びんに残った髪も白く、この部屋の主よりも老けて見える。青い目が、じ
っとこちらを見る。素顔のチャーリー・チャップリンを思わせる風貌である。」 私
の印象に強く残ったのは、実は、この一節よりもむしろ「憂鬱で、不機嫌な顔をし
た」バローが 「何度繰り返し名乗っても」芥川を「アキタガワ」と発音する。そ
れを正すと、バローは 「憮然とした表情になり、横をむいてしまった。」 それに
反して、ブルックはすぐさま正確な発音で「アクタガワ」と繰り返した・・・などと
いう件だった。
 このことを私は笈田氏に話したら 「ん、ん」と懐かしそうに顔を上に向けて笑
っていた。笈田さんも、その時その場にいあわせたからだ。 二十人程のイギリス
人の役者にまじって、私は笈田氏のワークショップを体験しながら、 笈田氏の理
解したブルック演劇の方法に触れて、 早く日本に帰ってシェイクスピアを作りた
い!と心踊らせていた―それは 1992年 11月のことである。

                   *

  『お気に召すまま』のアーデンの森は、東北の私たちにとっては、一体何処な
のだろうか?この問いが、 『マクベス』の脚本を終えた時から、私の胸にあった。
場が決まれば、人物が動き出す。 心癒される所。森でも海でもない。温泉郷だ、
と思いたったのは、いつだったか忘れたが、 小学校に通い始める前に、盲腸の治
療のために祖母と湯治滞在した鳴子温泉の硫黄の匂いを、久し振りに嗅いだ時だっ
たことは、確かである。
 子供のころに見た温泉郷の光景、 それこそがアーデンの森だと思えた時に、昭
和30年代という時代と温泉場を舞台にした 『お気に召すまま』の構想が動きだし
た。快く、やさしい笑い、ばかばかしくてちょっぴり哀愁のある喜劇。 原作の構
造を忠実に守るというよりは、登場人物の魅力を温泉という場の中で存分に輝かせ
てみたい・・・そういう思いがある。