アフター・エディンバラ (No.22 Winter 2001 )
新年明けましておめでとうございます。
新しい千年の幕開けです。健やかで喜びに溢れた一日一日を積み重ねながら今年も楽し
いシェイクスピアの舞台を創っていきたいと思います。
アフター・エディンバラ
主宰 下館和巳
エジンバラ経験をした私たちの時代を、それ以前の私たちのそれと比較して、つまり
アフター・エディンバラ(A.E.)と呼んでいいかもしれないと思う。そのニュアン
スは、アフター・ザ・ウォーつまり戦後という時のそれでは勿論なくて、大袈裟でおこ
がましい言い方をお許しいただければ、B.C,(ビフォー・ザ・クライスト/紀元前)
に対する A.D.(アノウ・ドミナイ/紀元後)のそれである。
何が変わったのか?私たちがどんな風に変わったかは、まだ実はよくわからない。
次の、又その次の舞台にその変化があらわれるかもしれない。しかし、カンパニー設立
当時の私たちの情熱の核だった劇場建設、そしてアジア・シェイクスピア祭実現へ向か
っての大きなスプリングボードが築かれたのではないか、という確信が生まれたような
気がする。
私たちがエディンバラから帰国してすぐ、海外から幾つかの魅力的な反応があった。
まずはドイツのDr.Wiertzからの長い手紙である。彼はデュッセルドルフにほど
近い町にあるシェイクスピア劇場のプロデューサーだが、エディンバラで私たちのマク
ベスを見て惚れ込んだから、来年、6月の演劇祭に私たちを是非招待したい!というの
である。嬉しかった。エディンバラのお客さんの割れるような拍手を思い起こしながら、
私たちのようなものにこうして熱い工一ルを送ってくれたことに深く感謝した。
劇団員全員と話し合って、結局、勿体ない話しではあるけれども、お断りすることに
した。私たちが場のスピリッツに基づいて芝居を創っていること、つまりスコットラン
ドだから『マクべス』なのだということを、そして更に私たちのエネルギーは恐山から
足かけ二年の旅の最終地点エディンバラで燃え尽きてしまったことを、アマチュア劇団
の贅沢なわがままをお許しいただきたい、という旨のことを、言葉を選んで書いた手紙
を送った。
Dr.Wiertzからその後しばらく返事がなく、気分を害されたのかなと案じてい
たら、つい先日「返事はNOで残念だったけれども、あなたたちの手紙がとても楽しか
った。いつかきっとドイツに来てください。それから、来年は温泉旅館の『お気に召す
まま』ということだけれども、ドイツにも温泉があるんだけどなぁ…」という、暖かい
ユーモアに包まれたお手紙をいただいて、私たちも是非2004年にはデンマークで
『ハムレット』を上演をした後に、ハムレットの母校のあるドイツに行こうという気持
になった。
10月20日、オックスフォード大学の博士課程の学生、Gallimor氏が、
エディンバラの『マクベス』に心動かされたと言って、私たちの稽古を取材にはるばる
英国から仙台を訪れてくれた。彼は、日本のシェイクスピア、とりわけ『夏の夜の夢』
の翻訳の博士論文を作成中ということだが、私は英国人の中に日本の翻訳と上演を研究
する人間が現れたことに、驚きと同時に微かな焦りを感じた。彼の日本語力が並外れた
ものであること、そしてシェイクスピアの原文を理解する力が少なくとも日本人よりも
優れているだろうことを思いあわせる時、われわれもウカウカしていられないと思った
からである。
それから10日後、私の研究室にマレーシア科学大学のDr.Latiff助教授か
ら手紙が届いた。彼とは1994年にロンドンで開催された演劇セミナーで熱い議論を
闘わして以来の友人だが、エディンバラ公演の様子をロイター通信のテレビで見て、
いてもたってもいられなくなった、是非仙台でシェイクスピア翻案の研究をしたい、と
いうのだ。電話で6年ぶりに話をしていて私の心を打ったのは「マレーシアのシェイク
スピアはいまだに英語なんだよ。いつかマレ-語でやりたい。そのためには一体どうし
たらいいのか、一緒に考えてくれないか」と言う言葉だった。
ジャパン・ファンデーションからスカラシップが与えられれば、彼は2001年の秋
に3ケ月ほど、東北学院大学の客員研究員として仙台に滞在することになる。今から彼
との再会とコラボレーションが楽しみだ。そしてその時がアジアへの扉が開かれる第一
歩になるだろう。
11月半ば、「突然のご連絡をお許し下さい。さて、この度、シェイクスピア・カン
パニー様が、当財団事業である劇団助成の今年度(第5回)の対象としてノミネートさ
れました」というファックスが届いた。送り人は光文ジェラサード文化財団とある。こ
れまでの助成対象として、北区つかこうへい劇団、劇団昂、大人計画などがあり「活発
な舞台活動を通して日本演劇界の発展に寄与したとされる劇団、演劇団体に対する助成」
という説明が記されていた。
いつの間に、私たちの舞台を見てくれたのだろう?なんだかよくわからないがノミネ
ートされただけでも、否私たちの舞台を見てくれただけでも嬉しい、というのが最初の
率直な感想だった。その後、今年度の助成の対象には結局選ばれませんでしたという連
絡を受けたが、私たちにとっては残念さよりも、目をとめていただいたことへの嬉しさ
のほうがはるかに大きい。
エディンバラが終わって、シェイクスピア・カンパ二一は新世紀に入った。アフター
・エディンバラ。今、私たちは文字通り生れ変わって、新しい、シェイクスピア創造に
向かうぞ、そんな並々ならない決意を抱いている。私たちは東北に根をおろしつつ、
東北を巡り、四年に一度は世界に飛び出して、ズッシリと軽やかに、演劇活動を展開し
ていきたいと思っている。そして、東北にいつの日か建設される和製グロープ座が、い
ずれ日本のみならずアジアの太陽になって暖かく輝く日が来ることを、私たちは強く願
っている。
下館さんとのこと
千葉工業大学 助教授 野上勝彦
下館さんと初めて会ったのは1993年の夏だったと思う。彼は,丁度ケンブリッジ大学
にダンテの研究のため在外研究員として滞在中,シェイクスピアの生誕地であるストラ
ットフォードに足を運んで来て,シェイクスピア研究所に滞在中の私と遭う羽目になっ
たというわけだが,その時の第一印象は強烈で,まずもってラーメンの話が忘れられな
い。ラーメンを哲学しているという表現が打ってつけの熱心さでその薀蓄には目を丸く
した。それなのに遭うたびに「ドンベエ」を食べているのを見ると,イギリスではかな
り妥協を強いられているようで気の毒な思いをしたものだ。
顔を合せているうちに,かなり慎重な様子で,実は東北弁でシェイクスピアを上演し
たいという話になり,ついで仙台にグローブ座を建築するつもりでいることも打ち明け
ていただいた。その時の熱気はラーメン以上だったので,これはきっと妥協せずに本気
でやるつもりだと直感した。その証拠に,以後,下館さんからラーメンの話は一切聞か
れない。それはともかく,シェイクスピア劇を東北弁で上演するというのは,実はまっ
たく奇異に聞こえず,むしろどこかでこのような人物が現れないものかと思っていた気
がするほどだったが,そのアイディアを聞いた瞬間から私のほうがのめり込んだといっ
ていいくらいだろう。今と同じく,そのころも,図書館に閉じこもって一日を過ごすと
いう生活にやや満ち足りないものを感じていたのだが,それはシェイクスピアにどのく
らいコミットするかという基本的な問題が図書館での調査だけでは解決できない,とい
う私自身のジレンマがなせる技だったと思う。
その時も,東北弁での上演という困難な事業が,実は的外れではなく,むしろ正当な
方法だという意味のことをお話したと記憶するが,十年近くRSCの舞台を観つづけた
結果,およそシェイクスピアの忠実な翻訳劇ほど無謀なことはないと常々考えていたか
らだ。むしろ東北に舞台を移し,東北独自のキャラクターを設定すること,つまりシェ
イクスピアを東北的に翻案することこそシェイクスピアを最も活かし,かつ自分たちも
活きる最善の方法だと思うのだ。自分達独自のものを創る以外に活きる道はない。この
点で下館さんと一致した。
下館さんは実践家である。何かを創る人物である。それは学問を超えたなにものかで
あるはずだ。総合芸術である演劇ならばこその御苦労も多いことと拝察するが,始まっ
て六年のこの遠大な実践計画が年毎に結実し,ひとつひとつ目標を超えていくことを楽
しみにしている。
エジンバラでの成果は下館さんから直接おうかがいし、又、10月3日のニュース・ス
テーションのレポートも拝見して、成功裡に終わったことを心よりうれしく思う。本当
におめでとうございました。