私たちの『オセロ』を探して (Vol.1 Spring 2010)
主宰 下館和巳
オセロのことでは一時思い屈した。去年の夏に丸山さんと構想を練ってから、脚本にとりかかり二幕冒頭の嵐の場面に差しかかった時、突然想像力が止まった。先が見えなくなったのだ。
気がつけば一人北海道行きの寝台列車北斗星号に乗っていた。長女の宇未の所望で、落ちるかもしれない飛行機も沈没するかもしれない船も使わない、列車の旅。函館、渡島半島、白老、札幌、石狩平野、知床半島、弟子屈、摩周湖、野付砂洲、根室、根釧台地、帯広、日高山脈・・・。鞄の中にあったのは、ケンブリッジ版のOthello、木下順二訳『オセロー』、知里幸恵の『アイヌ神謡集』、イザベラ・バードの『日本奥地紀行』。
目的のひとつは仙台藩白老元陣屋資料館。そこは、宮城県図書館の郷土資料室で見つけた一枚の地図「一八六0(万延元) 年奥州諸藩蝦夷警備地」が教えてくれた仙台藩士北方警備の歴史を詳細に語っている場だからだ。1855(安政2)年から1868(慶應4)年までの間、仙台藩は幕府より白老から択捉までを領地として与えられ北方警備の重責を担い、白老、十勝、厚岸、根室、国後、択捉に陣屋を置いて管轄していた。
なぜイザベラ・バードか?彼女は私たちがオセロの舞台に選んだ時代の蝦夷を旅しているからだ。1878年。イザベラ紀行を読みながら北海道を歩いていると、タイムマシンで一世紀前の蝦夷に来た感じがする。イザベラの蝦夷を見る目は驚くほど澄んでいる。とりわけアイヌについて記した一節に目を奪われる。「アイヌの最低の生活でも、世界の他の多くの原住民たちの生活よりは、相当に高度で、すぐれたものである・・・彼らは純潔で、他人に対して親切であり、正直で崇敬の念がある」。実を言えば、私はアイヌをオセロにすることに抵抗があった。だから、蝦夷オセロと名づけながら、オセロは白人のアメリカ人でデズデモーナは黄色人であった。
摩周湖の前に立って、その美しさに息をのんだ。イザベラの言葉が浮かぶ。「銀色に輝く湖は盲目の大自然の顔にぱっちり眼が開いたようである」。弟子屈のアイヌ部落を歩く。ふと入った茅葺の家に一人の老人がいて機を織っている。よく見ると彫り物や織物があるみやげもの屋だが、老人は商売っ気がなく私に目もくれず機を織り続けている。家の隅に立派な漆の桶が積み重ねられていた。その桶をじっと見ていると老人が「それなんだがわがるが?」と聞いてくる。「シャケと交換してもらったんですね」と私。すると「首桶だ」と吐き捨てるように言う。それから私は時を忘れてその老人の物語を聞いた。一人旅のよさだ。老人は国後島生まれのアイヌ。やわらかく、低い声がなにか不思議に懐かしかった。陽が暮れた。帰り際『コタンの口笛』という映画を見るようにすすめてくれた。その夜、宿泊先のユースホステルで熱を出す。38度5分。ひたすら白湯を飲み汗を出し汗を拭い眠る。翌朝、嘘のように元気になる。知床半島と根室半島の間から国後島が見たくなって。そこから仙台藩士が国後に渡ったはずの野付砂州の先端に行く。漁師に「ここら辺の海は荒れますか?」と聞いてみる。「静がなもんだ」と一言。鞄からOthelloを取り出しオホーツク海に向かって三幕三場を音読する。どうか素晴らしい蝦夷オセロが生まれますようにと祈りながら。
私は二幕一場の嵐の場面でつまずいた。なぜか?トルコならぬロシアが、ヴェニス公国ならぬ仙台藩と津軽海峡ではぶつからないだろうと思われたからだ。歴史的に見てもロシアが日本に接触するのは、根室、択捉、サハリンだ。ロシアの艦隊が襲来し勝手に沈没してしまうような海域はないだろうか?根室の北方資料館に行く。そこで出会った老人が「函館の高田屋嘉兵衛記念館さ行げばいいな」と言う。「どうして高田屋なんですか?」と聞き返すと、「国後と択捉の間は船乗りの難所でな、オホーツク海と日本海と太平洋の潮があの海峡で三筋になって渦巻いてるのさ」。私はすぐ函館に戻る列車に乗った。そして北の大地を横切りながら眠った。夢を見た、というよりはあのアイヌ老人の声が耳に響いた。「あんだ何しにここさ来たのや。アイヌはあんだの芝居の飾りが?アイヌを書いてくれや、どんな差別を受けてどんなに苦しんできたか書いてくれや」。目覚めると列車は白い十勝川を越えようとしていた。私は丸山さんにメールを打った。「僕たちの構想は大きく変わります。オセロはアイヌでなければなりません」。そうすると即返事が来た。「下館さんが北海道に行かなければならないと言った時に、そうなるだろうと思っていました。勇気がいりますが、やりましょう」。仙台に戻った夜、留守を守っていてくれた母に「アイヌのオセロになるよ」と言うと、「お父さん北海道物産展ある度にアイヌの人家に泊めてね。お前なんか朝その人の膝の上にのせられてふくろうの彫り物なんか作ってもらって喜んでだよ」と言われた。愕然として、あのやわらかく低い声を思い出していた。――蝦夷オセロ誕生!