起きることはみんないいことである
更新日:2014.1.29
主宰 下館和巳
これは、私の座右の銘だ。30年も前に宗教家の友人から教わった言葉だったが、その頃は意味がわからなかった。というよりは、受け入れられなかった。あれからいろんなことが人生に起きて、近頃この言葉をよく口ずさんで気がつけば元気になっていることが多くなった。まさに金科玉条。ちなみに、私はこう解釈している。人にはよいと思われることもわるいと思われることも起きる。よいことだと勿論嬉しい。そして神様に感謝する。神様のお陰だと思うからだ。でも、わるいことだと、神様が助けてくれなかったことを恨みかねない。
ひょっとして、よいことだけでなくわるいことも、神様のわざかもしれない・・・と考えると、よいこともわるいことも、感謝して受けとめなければならないのかもしれないと、真面目に思い始めた。いくつものよいことをいただきながら、いざひとつふたつのわるいことをいただいた時に、神様を恨んだり神様に毒づいたりするのは、妙である。
神様には、私たちの理解を超える思いや考えが、あるのである。よいことがわるいことにつながるかもしれないし、わるいことがよいことにつながるかもしれないし・・・でもそう考えるとめまいがするので、私はこう考える。よいことは素晴らしい。わるいことにも意味があって、いつかそれがよいことになる。
「な~んだ、要するに楽観的だ、つうことね」と言われたら、私は直ちに反論する。「要するに」でみんな同じになるのなら、言葉はいったいなんのためにあるんだ?と。言い方の数だけ、思想がある、哲学がある、文学がある。最後に、「起こることはどんなことでも?」と聞かれたことがある。答えは「はい」だ。例外はない。