崩壊からの創造 (Vol.2 Summer 2011)
主宰 下館和巳
3月11日2・46pm大地が揺れた。すぐに終わるだろうと思った。が、揺れはクレッシェンドで大きくなり異常な長さで続いた。誰もが自分は今ここで死ぬと、思ったにちがいない。私は、滅茶苦茶になっていく家の中で、今ここにいない3人の娘のことを考えていた。しまった!どこにいるんだ?学校?帰宅途中?すぐさま家を出ようとするが、できない。立ってもいられない。次の瞬間、轟音がした。どうやらすぐそばの鹿落坂で大規模な崖崩れがあったようだ。とんでもないことが起きている。窓から仙台の街の高層ビルは溶け始めた飴のように歪んでいるように見えた。私は宮城沖地震(1978年)の犠牲者の多くが、道沿いのブロック塀の瓦解によるものだったことを思い出して、転がるように家を飛び出して子供たちの小学校に走った。
道路は動かない車で溢れ、道路の隙間は帰宅しようとする人で立錐の余地なく埋まっていた。人の数は、仙台七夕と変わらぬ。違うのは、人の血眼の目だった。映画でしか見たことのない人々の姿だった。人の波を掻き分けて前に行く。すると、「パパー!」という声が道の向こう側から聞こえた。防災頭巾をかぶっていて顔がよく見えなかったが、三女の羽永(はな)だ。流れに逆らうように近づくと、羽永は私にだきついて泣きだした。「こわかったけど、はなは学校では泣かなかったよ。でもパパを見つけたら悲しくなったの・・・」。「創楽(そうら)は?」と聞こうとすると、福祉の付き添いの方に手を引かれたダウン症次女の創楽が私のお腹にしがみついてきて「おわいよ、おわいよ、そうらあいたよ、え~ん、え~ん」(こわいよ、こわいよ、そうら泣いたよ、え~ん、え~ん、って)と話してくれた。ああ、ふたりは無事だった、よかった、よかった、と思うや否や、中学2年生の長女の宇未のことを思った。「さあ、宇未を探しに行こう!」。霊屋下から更に広い東二番町通りに出ると、郊外に行く人と止まったままの車の数が何倍にもなって異様だった。ふたりの子供の手をひいて中学校に入ると校庭に全生徒が避難していた。時をおかず、私たちを見つけた宇未は照れたように近づいてきた。無事だった。「これでよし」と初めて私の硬直した身体がやわらいだ。すると、雪が降ってきた。みるみる空が埋まって、吹雪になった。
自宅に戻ると、崖崩れのあった坂から、激しい言い争いの声。警察官と消防隊だ。警察官は拡声器を使っているから、そのやりとりはよく聞こえる。「あぶねがら離れろ!」と老警察官。「こごさ三人も生き埋めになってんだどー!」と若い消防士。「あんだだずも死にでのが!」と老警察官。まるで戦場だ。私の住むマンションは無傷だったが、ライフラインがすべて絶たれ、パソコンは転倒して使い物にならず、携帯も通じずただの塊となって、どうしようもない。挙げ句の果てに、不気味な揺れが、これでもかこれでもかとやってくる。怯える子供たちと、避難所に移動することにした。着の身着のままで。もう日が暮れていたが、リュックを背負ってどこかに向かう人たちの姿があちこちにある。コンビニは人でごったがえしていた。避難所になっていた子供たちの小学校は、1000人を越える帰宅難民で足の踏み場もない。居場所を求めて歩く。児童館に明かりを見つけてそこの体育館で四人一枚の毛布にくるまって夜をすごした。眠りにつく前に宇未がぽつんと言った。
「家族そろったからもう死んでもいいね」
テレビもラジオも新聞もない。つまり情報がない。だから何が起きているのか、母や兄や友人たちがどうなっているのか、さっぱりわからない。今、子供たちがここにいて、とりあえず生きている、それでいいのだが、これからどうしようか?翌朝、まだガソリンが残っている車で実家のある塩竃に向かった。いつものように三陸自動車道にたどり着く。不思議な静けさをいぶかしく思いながら、おびただしい流木と廃屋になった道沿いの店舗、そこここに乗り捨てられた車・・・。仙台港の方から来る人の群れがあったので、いったい何があったのか聞いてみると「津波だ。ひどいもんだ。あっちは死体だらけだ」と。驚くというよりも、海から5キロも離れたここに水がきていることがわからなかった。いつもは30分で着く母の家に、道を変えて山越えをして3時間かけてたどり着く。
家族は幸い無事だったが、海産物屋を営む実家は冠水し、途方に暮れる兄がいた。玄関にぽつねんと青ざめて座っていた母は、元気な孫の顔を見て歓喜した。その日の夕方。私は居ても立ってもいられず、ひとりで、カンパニーの出発点となった七ヶ浜に行った。大好きな風景が消えていた。見慣れたなつかしい、道も、海の家も、民宿も、雑貨屋も、松林も、駐車場も、民家も、なんにもなかった。なんと言っていいのか、空襲にあったような、えたいのしれない怪物に踏みつぶされたような、殺伐とした光景であった。が、海はなにもなかったように穏やかにあった。私は、体が震え、涙が溢れるのを押さえることができなかった。 ああ、なんにもない、なんにもない・・・。
あの日から、5ヶ月が過ぎようとしている。復興も着々と進んでいる。しかし、まだ手つかずでそのままの状態の地域が少なくない。死者・行方不明者は22000人を越え、離職者は70000人に及ぶ。家も家族も流された孤児がいる、肉親の遺体が遠く北海道の苫小牧で見つかった家族がいる、未だに遺体が見つからない家族を捜している人たちがいる、ふるさとの街を失った人たちがいる、ふるさとを遠く追われ帰りたくても帰れない人たちがいる・・・。
シェイクスピア・カンパニーが発足してもうじき20年、東北の歴史と風土に抱かれ、不思議なめぐりあいを通して、東北各地で公演をさせていただいてきた。青森、岩手、秋田、山形、宮城、仙台湾の野々島でも・・・そしてほかでもない福島。1995年、第一作目の『ロミオとジュリエット』は福島県天栄村にあるブリティッシュ・ヒルズで産声をあげた。私たちがそこから世に出させていただいたことは忘れない。私たちのいわばお産婆さんともいうべき福島の憂いは、今、深くはかりしれない。
仙台では、全壊・半壊しているビルや民家はおびただしく、家族や友を失った人たちの心は深く傷ついている。
しかし、私たちは、生かされていることに感謝しなければならない。生かされている私たちは、絶望してはいけない。無念に命を落とした人たちを記憶している私たちが、生き続けることで、彼らが生きていくからだ。これから、私たちは、みんなで手をつないで、これからやるべきことをゆっくり考えていきたい。