再びシェイクスピアの国で

~ 総本山へ乗り込む ~ 

 

 

(9) 2003年 8月12日掲載   

 テムズ川運河の冒険

運河ですれ違ったナロウボートのおじさん    撮影 中村ハルコ

 

家族4人平底細船へ

 我家のすぐ前にケム川が流れている。そして、そこにはいつも色とりどりのナロウボート(平底細船)が停泊し ている。
 船の名前も水上ジプシー、俺の彼女、可愛いベイビー号と面白い。ある日、船からイギリスを見るのも乙かもしれ ないと思い立って、友人のパックストン夫妻から聞いていた運河の旅に、家族で挑戦してみることにした。 四日分 の自炊の準備をして平底細船四人乗りのルイザ号に乗り込む。形は屋形船を思わせるが、キッチン、シャワー、トイ レなどの設備は充実している。ベッドは寝台車よりも狭いが食堂に変貌する。妻と子供たちは船の中の不思議な空間 に大喜びだったが、運転からエンジンのケア、運河の水位を調節しているロック(水門)の開閉まですべて、自分達 でやらねばならないことを知らされた私は、一人不安になる。
 最初のロックまで懇願してついてきてもらった船頭のティムさんは、「ほら、こうしてああして、ちょっと大変な ぐれなもんだ。わがんながったら人さ聞いだらいいな。んではね」と独特のコックニー訛りで説明すると、 船に積んだ自転車に乗って風のように消えた。


優雅さとかけ離れ

 救命具を着て得意気な長女はひょろ長い船内を走り回り、二女はハナを垂らして泣き、妻は夕餉の支度に忙しく、私 は屋外の船尾で梶とりに必死であった。エンジンのポンポンと言う音がどこかもの哀しい。
 ワインを飲みつつ船下り、という優雅なイメージとは大分違う。これじゃただの水上生活者じゃないか…。それでも、 川面に浮かぶ水鳥や川沿いの緑の眩しさ、散歩する人から投げかけられる笑顔に押されるように前に進む。スピードは4 ノット(人の歩く速さだそうだ)だが、あっという間に、また憂鬱なロックが現れた。
 しかし、私たちの船が着くや否やどこからともなく現れた数人の男性が、ロックの開閉をあたりまえのことのように手 伝ってくれた。その一人、釣り人のジェフさんは、私が大初心者であることをすぐ察知して、「次のロックは水位の差が おっきくて危ないから、一緒についでいってやっから」と言って、いつの間にか、私たちの船に同乗してくれた。そのジ ェフさんが道すがらいろんなことを教えてくれた。


人情しみじみ味わう

 あの高級陶磁器のウエッジウッドの創始者が、割れ物には致命的な馬車輸送から船輸送への転換に一役買ったこと、紅茶 を沸かすポットの蓋がヒントになって蒸気機関車鉄道が生まれて運河が衰退してしまったこと、かつては馬車が陸で船を曳 いていたこと、船に暮らす人にもちゃんと住所があることなどなど。
 彼は言う。「運河には船で生まれて、船で死んでいった人達が創った生活の匂いが残ってるんだ」。そして、別れ際にニッ コリ微笑んで言った「急ぐんでないよ。どこにもつかなくったっていいんだがら」という言葉が心に残った。
 ロックの作業で中指の爪が剥がれはしたが、イギリス人の人情をしみじみ味わった旅であった。そして何より忘れがたい のは、真夏の夜、家族4人で見上げた満天の星空の息をのむ美しさである。