『鬼滅の刃』と東京の山々
更新日時 2020年10月29日
作家 丸山修身
高尾山は東京で最も有名な山である。標高は599メートルと高くないが、ミシュランガイドで三つ星の観光地に選ばれ、そのため外国人の登山者がたいへん多い。コロナ禍前の年間登山者数は260万人を超え、世界一という。また今年は文化庁によって「日本遺産」に認定された。植物の種類も豊かで、イギリス全土にほぼ近い数が一山で見られるというから驚くではないか。
先日10月21日(水)、好天だったので僕は、高尾山から奥に山歩きに行った。前回やってきたのはコロナ禍真っ只中の6月17日(水)のことであったが、頂上に人影は数人で、さびしくなる程であった。それが今回は平日ではあったが100人以上、ほぼ以前に戻ったような賑わいであった。
足の筋肉を鍛えることも来た目的の一つなので、山頂からさらに奥に進む。いわゆる「奥高尾」と呼ばれる山域で、アップダウンがけっこうある。茶屋のナメコ汁がおいしい城山(標高670)で休憩をとった。南西眼下に神奈川県の水がめである相模湖がよく見える。
ここから先は歩く人がめっきり少なくなる。ずっと下って、小仏(こぼとけ)峠(548)に降り着く。ここはかつて甲州街道の重要な峠で、小広い平地になっている。戦国時代、武田信玄が関東北条攻めに越えたのはこの峠で、明治の初めには明治天皇が巡幸で足跡を刻み、その碑が建っている。石仏や信楽焼(しがらきやき)の狸が祀られ、靜かな樹林の中に好ましい昔の峠の雰囲気をとどめている。
ここから登り返して景信山(かげのぶやま)を目指す。頂上直下は急登である。喘いで標高727メートルの頂上に立つ。ここからの眺望は素晴らしい。辿ってきた高尾山からの稜線が一望である。また八王子市方面が遮るものなく見渡せる。
息が整うのを待って辺りを見回すと、猫がうろついているではないか。以前他の山でも猫を見たが、これは猫が自分で登ってきたはずがない。人間が放置したのである。もうすぐ冬、おそらく長くは生きないだろう。しかし飼い猫を山に棄てるとはどういう神経だろう。こういう人間はきっとバチがあたる。
かるく食事をすませて小広い頂上を歩いてみた。かつて山菜の天ぷらで有名だった茶屋は現在は営業をやめている。と、茶屋の側に看板が立てられ、そこに色彩鮮やかな紙がはられているのに目がとまった。何だろうと僕は顔を近づけた。するとそれは剣を腰にさした少年のカラーコピーで、大きく『鬼滅の刃』とあった。目が大きなきりっとした美少年で、添えられていた説明文を読んで僕は驚いた。次のように書かれていたのである。
「霞柱(かすみばしら) 時透無一郎(ときとうむいちろう) 奥高尾 景信山出身 誕生日8月8日」
景信山―まさに今僕が立っている山ではないか。『鬼滅の刃』といえば大ヒットで、最近多くのマスコミに取り上げられている。その登場人物がこの山出身だって? 出身というからにはこの山中で生まれ育ったのだろう。どうやらこれは、この世界でいう「聖地」というものらしい、と僕は気づいた。
「聖地」とはスタッフがロケに訪れて参考にしたりした、作品にゆかりのある場所をさすらしい。要するに作品の舞台と想定される地ということだろう。それにしてもこの景信山が聖地になるとは!
この景信山、北条氏照の重臣・横地景信が陣をかまえたとも武田方の出城があったとも言い伝えられているが、確かなことは分からない。しかし何か重要な軍事施設があったことは確かなように思われる。というのは頂上がじつにきれいに二段にわたって平に整地されているのだ。明らかに自然のままの山頂ではない。あるいはそこから聖地の話が生じたのかもしれない。
看板をさらによく見ると、他の聖地として、雲取山、大岳山、日の出山、と、僕が自分の庭のように歩いてきた多摩の山々が挙げられているではないか。僕がじっとコピーを見つめていると、男女混じった数人の若者グループがやってきた。彼らもこのコピーをみて『鬼滅の刃』について語り出した。それによるとこの作品は昔の炭焼きが舞台なのだという。それで景信山が聖地となったのか、と僕は幾分か納得がいった。
家に帰って『鬼滅の刃』についてネットで調べてみた。それによると、時代は大正時代、主人公は竈門炭治郎(かまどたんじろう)という炭焼き少年で、家族を鬼に殺され、ただ一人残った妹を鬼に変えさせられ、それを人間に返すために戦う話だという。とにかく大変な人気で、山口県の温泉では本が全巻盗難にあい、それがまた後日、詫び状を添えて送り返されてきたという。よほど全巻読みたかったに違いない。
またアニメ映画が公開後3日間で動員が342万人余、興行収入が46億円以上とマスコミで大きく報じられた。その後、公開後10日で100億円を突破したという。今までは2001年の『千と千尋の神隠し』の25日というからたいへんな記録更新である。このコロナ禍にあって、興行面でのたいへんなお助け神というべきだろう。コロナで押さえつけられていたものが、どっと爆発した印象であった。
時透無一郎の父親は杣人(そまびと)であったという。つまり木こり、木材の伐採搬出をする人である。実際にはこの景信山に大正時代に人が暮らした痕跡はまったくない。作品はあくまで想像、創作、それでまったくかまわないらしい。しかし身近な東京の山々が聖地になっていることは、なんとなくうれしいものである。特に東京都の最高峰・雲取山(2017メートル)が、主人公・炭治郎と妹・禰豆子(ねずこ)の出身地と想定されていることは、山好きの僕としてはうれしい。おそらく多くの若者が大事な聖地として登るだろうが、遭難にはくれぐれも注意してもらいたいものだ。ケーブルカーやリフトがある高尾山とはまったく違う。特に靴は登山靴でなくてもいいから厚底の滑りにくいものを履いてもらいたい。
軽く食事をすませて引き返す。このコースは様々なヴァリエーションルートがあり、帰りは違う道を辿ることも多いのだが、今日は一番の目的が足の訓練であったので来た道を帰ることにする。
行き会う人のほとんどはストックを突いている。特に中高年の女性グループはほとんど両手に持って歩いている。僕はいつも不思議に思うのだ。高尾山程度の山でストックを使うのはかえって歩きにくいのではないだろうか、と。
おそらく一種のファッションなのだろう。その背後には登山用具を売りたい業界の商魂がある。バレンタインデーのチョコレートと同じ構造である。ぼくはそれに流されるのがイヤなので、ずっと両手を空にして歩いている。その方が足を滑らせて転んだ時にとっさに手を突きやすく、安全のような気がするのだ。一瞬のタイミングの遅れ、狂いが、山では大ケガや死に結びつくことがある。
途中で休んでいると、三人の若い外国人女性が元気に奥の景信山方面に登って行く。しばらくすると引き返してきた。スマホ以外何も持たない軽装である。おそらくケーブルカーでやってきたのだろう。そして僕に下りはどっちか訊ねた。国を訊くと、イタリアとスペインとロシヤだという。
僕が正しい道を教えてやると、また賑やかに正しい方向に歩いていった。下山して高尾山口駅前のそば屋の店内をガラス越しにみると、彼女たちがいた。ちなみに高尾山はトロロそばが名物である。