丸山邦雄・『どこにもない国』

更新日時 2018年5月8日

作家 丸山修身

 

 もう一ヶ月余り前のことになるが、3月24日(土)と31日(土)の二回にわたり、NHK総合テレビで『どこにもない国』という内野聖陽主演のドラマが放送された。敗戦後の大混乱の中で、満州からの引き揚げがいかに苦難の連続であったかに焦点をあてた作品だった。その引き揚げの中心となって奮闘したのは、内野聖陽が演じた「丸山邦雄」という男であった。記憶されている方も多いのではないか。

 その翌日、僕の高校時代の恩師から電話があった。

「あの丸山邦雄という主人公は、調べたら飯山の出身となっていたけれども、きみと関係があるのかい?」

 僕は答えた。

「ああ、あれは僕の本家ですよ。同じ村、同じ集落で、すぐ近くです。100メートルも離れていません。明治の初め、僕の曾祖父(ひいじいさん)が、あの家から分家に出たんです」

 どうやら先生は、ドラマから関心をもって「丸山邦雄」とはどういう出自かネットで調べたらしい。その後また何人かの方から、電話やメールの問い合わせがあった。我が家ではもっぱら「くにおさん」と呼んでいた。

 

 邦雄さんは明治三十六年(1903)年の生まれである。生誕の地は現在は飯山市となっているが、当時は「下水内(しもみのち)郡柳原村大字富倉滝の脇」であった。その後の経歴はWikipediaを覗いていただきたいが、アメリカの大学を出ているので英語が堪能であった。それを生かして戦後は明治大学で教鞭をとり、昭和五十六年(1981)に亡くなっている。

 僕が子供の頃邦雄さんはすでに家を出ていたから、直接の面識はない。しかし三十五軒の小さな集落であり、また僕が田舎にいた頃は邦雄さんの兄が生家の当主であったから邦雄さんの話はよく聞いていた。自身が満州から帰国した時、集落の家々を挨拶して回ったと僕は父親から聞いている。が、引き揚げに奮闘尽力したことは地元でもあまり知られていなかった。

 邦雄さんは引き揚げに関する活動をしっかり後世に伝えたかったようである。その証として僕が大学時代の1970年、『なぜコロ島を開いたか 在満邦人の引揚げ秘録』(永田書房)という本を出版した。我が家も一冊恵贈を受け、僕は当時すぐこの本を読んだものである。しかし内容についてはあの頃はあまり関心がなく、深く意識にとどめなかった。ただ「コロ(葫蘆)島」というのは実際は島ではなく、旧満州南西部、現在の中国遼寧省の地名であることを知った。ここから船で残留日本人の引き揚げが行われたのである。この裏には、得意の英語を駆使しての、邦雄さんたちの懸命なマッカーサーの連合国総司令部や日本政府への働きかけがあった。

 飯山の「ふるさと舘」では、先日のテレビ放映にあわせて「丸山邦雄資料展」が開催されたという。

 

 邦雄さんの奮闘を押した背後には何があったか。実は長野県は全国で最も多くの満蒙開拓団を送り出した県で、全開拓移民約27万人中、3万人以上、うち死者は約1万5千人、死亡率50%に上る。全国死亡率約27%であるからたいへんな惨劇を蒙(こうむ)ったわけだ。(『長野県の百年』山川出版社刊による)このため僕も、悲惨な話は幼い頃からよく身近に聞いていた。

 最も多くの開拓民を送り出したのは、県南部、天竜川が流れる伊那谷の村々であった。天竜川は諏訪湖を発して静岡県浜松市に近い太平洋に流れ下る谷底の急流だが、流れに沿って走る飯田線は、最近秘境駅が多いことで有名である。

 もし皆さんが飯田線に乗る機会があったら、列車の車窓から谷沿いの景観を見上げていただきたい。深く切れ落ちた山肌に、ぽつりぽつりと小さな家がへばりついている。それを見れば、なぜこの地から多くの村人が「王道楽土」を夢見てはるばる中国大陸に向かって海を渡っていったか、すぐ解るはずである。どんなに県や村のさかんな奨励があっても、生まれ故郷で平安な暮らしが営まれるのであれば、満州になど行く訳がないのだ。

 また分村をつくって家族ごと最初に集団渡満したのは、佐久の寒冷地、大日向(おおひなた)村であった。昭和十三年(1938)のことである。村の戸数およそ400戸のうち、敗戦時には189戸、766名が満州に渡っていた。うち死者は370名以上に上る。

 ここは山の陰となっているので冬は九時にならないと陽が射さず、午後は三時には陽が沈む、俗に「半日村」と呼ばれた耕地のとぼしい寒村で、主要産業は養蚕と炭焼きであった。帰国できた人たちは、軽井沢に近い浅間山の山麓「追分原」に入植して開墾に当たった。

 去年の夏のことだったが、天皇皇后両陛下がここの大日向地区を訪れ住民と交流したというニュースがテレビ映像で流れた。記憶されている方も多いのではないか。両陛下の心中にも、「満州からの引き揚げ者による苦難の開拓地」という意識があったに違いない。

 

 僕の郷里の近くの山の中にも、満州からの帰還者が拓いた、十戸足らずの小さな集落があった。集落の名前はずばり「開拓団」であった。

 山の上の方であるから、ここからの眺望は素晴らしかった。僕たちは小学校一年の時、ここに遠足に行ったものである。田んぼがなくて米がとれず、掘っ立て小屋のような小さな家の軒下に、ダイコンやトウモロコシが乾されていた。

 またここは紅葉が目を焼くような鮮やかさだった。僕たちは秋たけなわの好天の一日、小中学校全員で開拓団集落に「写生大会」に上っていったものである。秋景色を描いて上手な絵に賞を与えるのだ。

 しかし僕は、絵や賞などそっちのけで、殆ど雑木林に入って遊んでいた。皮の紫色がしみるように美しいアケビや、甘いヤマブドウが、どっさり採れたのだ。遊び呆けているうちにウルシに触れ、ひどいかぶれに苦しんだことも一度や二度ではない。しかしあれは最も幸福だった一日として、今もくっきりと僕の記憶に残っている。

 

 脱線したが、元に戻る。佐久出身の直木賞作家・井出孫六(1931~)に、『終わりなき旅 「中国残留孤児」の歴史と現在』(岩波同時代ライブラリー 岩波現代文庫)という名著がある。昭和六十一年(1986)年度、第13回の大佛次郎賞受賞作品である。

 長野県の残留孤児の実態が、事実に即して具体的に書かれていて、実に素晴らしい。僕はこの本を若い人にはぜひ読んでほしいのだ。それは長い目で見て、どれだけその人のためになるか知れないと思う。

 さらにもう一冊ある。上野英信(1923~1987)著『追われゆく坑夫たち』(岩波新書 岩波同時代ライブラリー)である。これはエネルギーの主力が石炭から石油に切り替わっていく中、北九州筑豊の中小炭鉱に生きた人々の、悲惨を極めた命の記録である。暗いとか明るいという次元の問題ではない。これらの本はいわば日本の宝、我々が決して忘れてはならない、真率な魂の記録なのだ。

 

 今から数年前のことである。邦雄さんの息子ポール・邦昭・マルヤマさんが、父親の故郷、つまり僕が生まれ育った村を、アメリカの家族十人ほどを引き連れてはるばる訪れたと聞いた。山深い過疎地で、先祖がここから出ていったことにさぞみなさんびっくりし、感慨が深かったことだろう。

 ポールさんは父親の功績を残し伝えることに一生懸命で、今回のNHK『どこにもない国』の制作には邦昭さんの尽力貢献があったようである。

 ちなみにこのポール・邦昭さん、昭和三十九年(1964)の東京オリンピックに、柔道軽量級のアメリカ代表として出場した。一回戦で日本の中谷選手に負けたことが、当時高校二年生だった僕の記憶につよく残っている。

 ポールさん、どうか健康で長生きしてください。