君たちはどう生きるか
更新日時 2018年1月29日
作家 丸山修身
君たちはどう生きるか―これは元々、戦前の昭和十二年(1937)、吉野源三郎(1899-1981)によって書かれた著書のタイトルである。吉野は戦後、岩波書店の月刊誌『世界』の初代編集長となり、リベラル派言論人として名をはせた。しかし近年、その名も著書のタイトルも、耳にすることはほとんど無くなっていた。いわば忘れられていたのである。
それが最近、羽賀翔一によって漫画化され、130万部の大ヒットという。またアニメ映画の巨匠・宮崎駿監督の次作のタイトルにもなるということで、大きな話題になっている。宮崎版『君たちはどう生きるか』の内容の詳しいことは分からないが、吉野の本が主人公にとって重要な意味をもつそうだ。
おそらく宮崎監督は、後世の少年少女に何か遺言のようにして言っておきたいことがあるに違いない。とすると、宮崎監督、人生の総決算ともいうべき渾身の作となるだろう。
このような啓蒙的な、ある意味では固い戦前の著作が、およそ八十年ぶりに甦ったことに、正直、僕は驚いている。昔、若かった頃、たしか僕は『コペルくんの発見』というダイジェスト版で読んだ記憶がある。
しかしどうして突然、この著書が再び脚光を浴びることになったのだろう。その背景には何があるのか。もちろん漫画の力は大きい。しかしそこには受け容れられる素地がなければならない。それはいったい何なのか?
そこで今回、岩波文庫版『君たちはどう生きるか』を買って熟読してみた。考えることがさまざまあった。そんなことを、これから僕が感じるままに書いてみたい。
主人公は「コペルくん」と呼ばれる十五歳、中学二年生(旧制)の小柄な少年である。「コペル」とはポーランドの天文学者コペルニクス(1473-1543)にちなんで名づけられたものだ。
コペルニクスはイタリアのガリレオ・ガリレイ(1564-1642)とともに地動説をとなえた人として有名である。太陽が地球の周りを回っているという天動説は誤りで、逆に地球が太陽の周りを回っていることを発見したのだ。これは天文学の分野だけでなく、キリスト教の教会中心の考え方を根本からくつがえす世紀の大発見であった。つまりコペルくんは、幼い自己中心的な少年ではなく、他者や世の中にも目配りできて、自分が社会の一分子であることを理解する、聡明な「地動説的」少年として設定されている。
ナポレオンとかニュートン、アレキサンダー大王、ガンダーラ美術、など歴史にまつわるさまざまなことが例に書かれているが、僕が読んで特に印象にとどめたのは、少年たちの人間関係にまつわる二つの章であった。これは現代でもまったく通じる問題だからである。
その一つ。コペルくんの学校は、親が有名実業家、役人、大学教授、医者、弁護士など上流階層が多いのだが、一人、貧しい豆腐屋の息子が混じっている。「浦川くん」である。浦川くんは運動神経がにぶく、成績もかんばしくない。そんな彼をバカにして、弁当のおかずにアブラゲを入れてきたといってしつこくからかうグループがあった。それは度を超して、いじめといっていい。
コペルくんはそんな事態に心をいため、浦川くんをかばいたいのだが、気の弱さから黙って見ているのみであった。
しかし一人、敢然と取っ組み合いまでして、浦川くんをいじめグループから守った少年がいた。「北見くん」である。コペルくんは北見くんにひどく感動して、以後、親しい友になる。友が自分よりもはるかに偉大に見える瞬間、それは誰にもあるのではないだろうか。僕は何度もある。
これはまさに現在学校で問題となっているいじめの問題である。悪質ないじめを目撃したとき、どう対処すべきか。ここには人間倫理の根幹を問う、重大な問題が秘められている。真の勇気とは何なのか?
もう一つ。今回は勇気ある北見くんが、生意気だということで、柔道部の上級生に目をつけられ、集団リンチにあう場面である。やられそうな気配はその前からあって、コペルくんたちは、その時は一緒にやられよう、一人だけを犠牲にしない、と約束しあっていた。
しかし、いざとなった時、コペルくんは北見くんを見捨てる羽目になった。「飛び出す機会を失って」と書かれているが、要するに勇気がなくて「逃げた」のである。そのふがいなさ! 取り返しのつかない卑怯なことをしてしまったという後悔の思い! 人間の本質はこういうところにこそ顕(あらわ)れるものである。
コペルくんは深く思い悩む。
以上の二つの話はちょっとくどいほどに描かれる。つまり著者吉野源三郎にとって、この問題がいかに大きかったかを示している。
僕が二つの話から先ず連想したのは、戦前の「転向」の問題であった。「転向」とは、官憲の弾圧に屈して共産主義運動から離脱することだ。正しい道と信じて突き進む同志を見捨てて離れていくことは、どれほど苦痛を伴うことだったろう。ただ実際に吉野にこの体験があったかどうかは、僕は知らない。
友を見捨て、自分の保身のために逃げるということ。このつらく苦しい体験を持たない人はおそらくいないだろう。他人にはどんな些細(ささい)なことに見えようとも、こういうことは長く心の傷となって残るものである。転向でなくとも似たようなことはおそらく吉野にもあり、彼はその体験を基に書いているに違いない。
この問題は、僕たちの時代の学生運動にもあった。濃密にあった。組織と個人。そこに絡む人間関係。もっと身近な例でいえば、会社の方針と自分が正しいと思うことの食い違いは誰にもあるはずだ。これも大きな悩みとなる。上司をぶんなぐって辞めてやりたい、と願わなかったサラリーマンは、まずいないだろう。
この問題をさらに突き詰めていけば、丸山真男の『忠誠と反逆』まで行き着く。一体、忠誠とは何なのか? 何に対する忠誠なのか? そして、反逆とは?
君たちはどう生きるかー考えてみれば、このような愚直な問いを真っ正面から青少年に投げかけた智恵ある大人は、最近ほとんどいなかった。僕が知る限り、わずかに司馬遼太郎が二十世紀の末、『二十一世紀に生きる君たちへ』というタイトルで、人間として最低限守るべき心得を少年少女に向かって教え示したのみである。
とかく軽佻浮薄(けいちょうふはく)に流れることを良しとする傾向が強い昨今である。例えばテレビで垂れ流しされる、質の低いお笑いを考えてもらえばいい。そんな中、『君たちはどう生きるか』という堂々とした正面からの問いかけには、多くの人が驚いたのではないか。そこに吉野の著書がよみがえった秘密があるような気がする。
このような人生の根幹に関わることを、子供にも解るように書くということは容易なことではない。物事の本質を理解していればこそ、文章は易しく書けるものだ。ひどく難解でほとんど意味不明の文は、作者が見栄をはって懸命に背伸びをしているのである。
今回は固いことを書いたと思われるかもしれないが、僕としては決してそんなつもりはない。要するに、普通に、誠実に生きればいいのである。しかし次のことは、折にふれて問い続けていかなければならないだろう。
私たちはどう生きるか?
私自身はどう生きるか?