恥ずかしい話                                   

                                     更新日:2016年1月7日

作家 丸山修身

 

 2016年が明けた。昨年10月初め、ぎっくり腰にかかり、「つれづれ日記」の更新が遅れたことを先ずお詫びする。ぎっくり腰といってもたいしたことはなく、良くなりかけては山登りに出掛けたり水泳をやったりしてまたぶり返す、というその繰り返しであった。それにしてもどこか体に痛いところがあるというのは気分が憂鬱なものである。気力が湧かないのだ。しかしようやく本復が見えてきたような気がするので、気力を振りしぼって書くことにする。

 

 年をとると、段々時間の経過が早くなり、密度も薄くなってくる。さーっと月日が過ぎ去る感じなのだ。そんな中、ふっと思う。ある意味、年をとっていくということは恥を積み重ねることに他ならない、と。

 思い返せば、発狂しそうな恥ずかしい思い出はいくつもある。発狂しそうなくらいであるから、これは他人には話さない。墓の中までもっていく秘密である。

 

 しかし開陳しても構わない程度の恥だったらいくつでもある。先ずその手近で代表的なものは、漢字の読み間違い、書き間違いだろうか。

 これは誰にもあって、たとえば立花隆のような頭のいい人でも、「尾羽(おは)打ち枯らす」を「尾羽(おばね)打ち枯らす」と読んで、テレビでよく発言している。落ちぶれてみすぼらしくなる、という意味である。これは最初に「おばね」と覚えたために、本人が間違いに気づかないのだ。周囲も立花隆ぐらいの大物になると指摘しない。

 また司馬遼太郎にあっては「素敵(すてき)」は常に「素的」と書かれる。また臼井吉見が「吊り橋」を「釣り橋」と書いていたのには驚いた。これでは魚釣りの橋ということになってしまうではないか。司馬ぐらいの大家、臼井のような出版界の大先輩となると、「先生、それはこうではないですか」と担当編集者や校正係も言わないのだ。

 しかし司馬遼太郎ぐらいになると「素的」がいつしか定着してしまい、違和感をまったく感じなくなる。僕も「素敵」の「敵」がきらいで、あまり使いたくない。意味にそぐわない感じがするのだ。それより「的」の方がいい。

 

 これらのことは教養、知識があるないとは関係がない。要するに思い込みである。最初にそのように覚えると、本人は正しいと思い込んでいるので、他人に指摘されないと気づかない。こういう例はみなさんにもあるはずである。

 こういう間違いを本などで発見して、鬼の首でもとったかのように自らの知恵者ぶりをひけらかす人がいるが、これはいい趣味ではない。そういう人間は、自分も同じ間違いをおかすことを忘れているのだ。

 

 ここまで書いておけば、僕も安心して自らの恥を開陳披露することが出来る。

 

 その最大のものは、ワープロを使うまで、長いこと「僕」という字を間違って手書きしていたことだろうか。右側のつくりの部分、一番下の八の字型に開いた箇所の真ん中に、一本、縦棒が通っていたのである。最初に覚えた時、そのように思い込んだのだ。

 手紙、試験答案、論文など、その間違った「ぼく」を何十年も書いてきたのだ。減点されることもあっただろうが、本人は気づかない。

 いちばん悔やまれるのは、この間違った字でラブレターをさかんに書いたことである。どんなに熱をこめて書いても、いちばん肝心の、自らを指す主語が誤字ときては、相手の女性はどんな思いで手紙を読んだことだろう。思い返して、ワッ、と叫んで頭を抱えるばかりである。僕の恋が実らなかったのは或いはこのせいかとも思うが、考えすぎだろうか。しかし今さらどんなに悔いても、もう取り返しはきかない。

 

 また僕の学生時代の友人には、親友の苗字を数十年にわたって間違えていた男がいる。お互いごく親しい友なのだが、「江藤」を「衛藤」と勘違いしていたのである。それで毎年年賀状を出し、結婚式の招待状も送ったというからびっくりしてしまう。

 数年前に飲み会でたまたまこの間違いが発覚し、みんな驚き呆れるとともに、どうしてこんな間違いが発生したのだろうと首をひねるばかりであった。

 しかし思い違いというのは大体このようなものだ。だから親しい関係であれば、傷つかないよう、それとなく言ってやるべきだと思う。それによって、末代(まつだい)までの恥は止む。

 

 これ以外の恥ずかしい間違いは数が多すぎて、実際どれから採り上げていいか分からない。そこでちょっと脱線して外国に話をもっていくこととする。これを知ると、我々も大いに安心する。

 19世紀半ばのフランスに、G.フローベールという大作家がいた。名作『ボヴァリー夫人』、『感情教育』を書いた作家である。

 フローベールは、僕が上に書いたような間違いをずいぶん多くおかした作家だったようだ。これについて、同じフランスの実存主義作家・哲学者のJ=P.サルトルは、ある対談でおよそ次のような趣旨を述べていた。

 

   フローベールは大作家にしては普通考えられないような多くの思い違いや綴りの間違いをおかしている。しかし彼の場合、そのそれぞれに

  意味がある。なぜ間違いをおかすのか。実はその間違いのよってきたるところにこそ、フローベールという人間の複雑な精神の深奥を解くカ

  ギが秘められている。

 

 これを読んで、僕は先ずほっと胸をなで下ろしたものだ。フローベールのような大作家と僕のような頭の悪い粗忽(そこつ)者を比べるのはおこがましい限りだが、大いに安心したことは事実である。

 人間というやつは「現実」の受け止め方が様々なのだ。人間は自分の狭い体験の範囲内で、つまり自らの想像力の触手が届くかぎりにおいて、対象をからめとり、理解しているらしい。我々が現実理解と思っているものも、実は幻想のベールをかぶった、偏った思い込みに過ぎないのかもしれない。人それぞれ、同じものを見ても、思うところは違う。感じ方も異なる。

 誰にも等しい現実というものは存在しない。とすると、他者とはなんだろう?という疑問が生じる これこそが、実存主義のもっとも基本的な、出発点となる問い掛けである。

 フローベールは、特に強烈な個性と想像力をもった人間であった。ある現実がずいぶん偏光をかけられ、いわばねじれて受け止められたに違いないのだ。サルトルはそれを言っている。

 

 七面倒くさいところに脱線してきてしまったようだ。元に戻る。僕は以上のことを恥ずかしいこととして書いてきたが、よく考えれば、別に恥ずかしいことではないのかもしれない。間違いはいかにも人間くさい。僕はいつも取り澄ました態度で、間違いをおかさないような顔をしている人間は好きになれない。一緒に酒を飲みたくない。

 だから、みなさん、今年もよく生き、たくさん恥をかこうではないか。それは人間である証しなのだから。