枕営業・たんす預金・生きざま
更新日:2015年6月23日
作家 丸山修身
枕営業―まくらえいぎょう。みなさんはこの言葉の意味を理解できるだろうか。僕は先月5月28日の朝日新聞朝刊で初めてこれを知り、驚き、そして笑ってしまった。クラブのママなどが、上客を引き留めるために性行為を行うことを「枕営業」と呼ぶのだという。
これは裁判の判決で堂々と使われた言葉である。ある女性が、夫が不倫をはたらいているとして、相手のクラブママに400万円の慰謝料を求めたのだ。
その判決では、売春婦が性交渉しても結婚生活の平和を害するものでないのと同様、「客が店に通って代金を支払う中から、間接的に枕営業の対価が支払われている」として、女性の損害賠償請求は退けられた。つまり、客が高い金を払ってクラブに通うのは女の体を目的としているからですよ、ということだ。裁判所がそれをママ側の「枕営業」として、正当な行為と認めたのである。
妻側は控訴せず、一審で判決が確定した。それにしても、「枕営業」とは。ぴったりのようでもあり、またちょっと的外れのようでもあり、考えれば考えるほど笑ってしまう。その後、「枕営業」は何度かマスコミで見聞きするようになった。
わいせつ裁判も同様だが、性をめぐる裁判はこのようにおかしいことがままある。わいせつの厳密な定義など誰にも出来ないのだ。個人の心の、最も奥深い問題だからだ。枕営業にしても、それが単なる「営業」であったのか、それとも愛情がからんでいたのか、他人には誰も分からない。性の問題は、もっとも法律が通用しにくい分野といえるだろう。
裁判で話題になり、僕の記憶の強く残る言葉をもう一つ。それは「雲助(くもすけ)」である。これはもう三十年ぐらい昔になるが、京都でタクシーの運転手の粗暴なふるまいが裁判沙汰になったことがあった。特に印象に残ったのでよく憶えているが、その判決で「タクシー運転手の中には雲助まがいの者もいることは事実」とあったのだ。この「雲助まがい」に運転手たちが怒り、ちょっとした騒ぎとなり、マスコミで取り上げられた。
雲助―みなさんも時代劇映画なんぞでご覧になったことがあるだろう。駕籠(かご)かきなんぞを生業として街道の峠や川の渡し場にたむろし、通行人を脅して金銭を巻き上げたり身ぐるみ剥いだり、また女を襲ったりするゴロツキである。映画では、山賊のような無精髭をはやし、ギョロ目の悪人面をしている。
京都のこの判決文には実は伏線があったと僕は思っている。というのは、僕が子供の頃、「雲助タクシー」という言葉があって、よく聞いたのだ。今はタクシーも規制が厳しく品がよくなっているが、昔はガラの悪い運転手がいて、猛スピードを出したり、金を不当に高くふんだくったりするやつもいたのだ。僕はこの頃運転手をやっていた人から直接「タクシーの運ちゃんなんか、暇な時はバクチばっかりだよ」と聞いたことがある。(先祖や親戚がタクシー運転手だった方はゴメンナサイ)
僕の想像だが、判決文を書いた裁判官には「雲助タクシー」という言葉が残っていて、それが判決文に出たのではないか。とにかく無味乾燥が普通の裁判の文章には珍しく、えらく人間臭い判決文であった。
次は「たんす預金」である。これも初めて知った時は驚いた。たんすと預金の関連が分からなかったのだ。たんすは衣服を保存しておくもの、預金は金融機関、とまったく性格が違うではないか。
みなさんは意味をご存知のことと思う。家に現金を隠し持っていることをいう。ヘソクリとは違って大金であり、秘密性が高い。もちろん場所はたんすの中とは限らない。おそらくは頑丈な金庫か、秘密の隠し場所だろう。
僕は先ず、どうして銀行に預けないのだろう、と不思議だった。だいいち不用心ではないか。泥棒にねらわれたらどうするのだろう。僕のような貧乏人は盗られるものがないから安心して寝ていられるが、夜も安眠できないのではないか。時々金庫ごと大金が強奪されたというニュースが流れるが、多分盗っ人はたんす預金があることを知っていたのではないか。
これは持ち主に、正当な手段で得たのではない金、隠さなければならない金、という意識があるからに違いない。税務署、警察なんぞには絶対知られたくない金なのだ。それにしても、あるところにはあるもので、ぼくのような文無しには想像をこえる世界である。
枕営業。たんす預金。これらの言葉がユーモアを伴って心に残るのは、まったく違う性格のものを組み合わせた合成語だからに違いない。誰もが最初はびっくりし、意味を考える。そのうちに絶妙な取り合わせに感嘆し、ほんわりとした笑いとともに心に残ることになる。
そういう合成語の例をもう一つ。それは「性格ブス」である。これは30~40年ぐらい前に流行った言葉だが、最近は聞かなくなった。おそらくブスという言い方が差別語とされるからに違いない。しかしこれも絶妙な合成語だと思う。
陰気、陰険、ネクラ、性格が悪い、なんぞよりずっと妙味がある。性格という内面的なものとブスという外面的要素をくっつけたところに、何ともいえぬおかし味が生じるのだ。これらの言葉は、考えに考えたというより自然発生的に生まれたような気がする。だから独特の味があるのだろう。こういう斬新な言葉を生むのはいつの時代も若者達である。
面白おかしく感じた言葉を並べてきたが、逆に僕が絶対使いたくない言葉を最後にあげておく。それは「生きざま」である。五木寛之が対談などでしょっちゅう使っているが、僕はこの言葉がイヤで仕方がない。
東京に出て来て初めて聞いた時はびっくりした。田舎では絶対に使わなかったからだ。というのは、「ざま」というのは非常に悪い言葉で、例えば「ざまをたける」という言い回しがあった。たける、はある状態に陥ることで、人間がどうしようもない惨めな状態に落ちぶれることをいった。天災や病気によって仕方なく追いつめられたのではない。怠惰と無能によって、食うものも食えないような最低の状態にまで転落したことをいう。
ざま、を『広辞苑』初版で引いてみよう。「ざま(様)―様子、ありさまというのを憎げにいう語」とあり、その使用例として「ざまを見ろ」をあげている。また『新明解国語辞典』初版では「ざまーぶかっこうな様子。体裁が悪い。だらしがない」とあり、例文として、「なんてざまだ」、「ざまは無い」があげられている。
やはり本来悪い場合に使われる言葉なのだ。が、僕自身は絶対に「生きざま」を使わないが、目くじらたてて排斥するつもりはない。というのは言葉には地域性があって、僕の語感だけが正しいとは言えないからだ。「生きざま」を「生き方」と同じ意味で普通に使う地方があるのかも知れない。
鼻濁音「が」もその例で、東北ではきれいに鼻に抜いて「が」を発音するが、西日本にはそもそも鼻濁音が存在しない地域が広く存在する。だから鵞鳥(がちょう)が、ガー、ガー、と鳴くような「が」をテレビやラジオで耳にすることになる。耳障りだが仕方がない。
僕はやはりきれいな鼻濁音が好きだ。生まれ育った信州の田舎でも鼻濁音を使ったから。