テレビ・この神秘なるもの
更新日:2015年5月21日
作家 丸山修身
この世に「テレビ」というものが存在すると知った時、なんと驚いたことだろう。それはラジオと違って、音だけでなく絵が映るのだという。どういう仕組みでそんなことが可能なのだろう。それは想像も出来ない、魔法のようなことに僕には思われた。
驚きが大きかったせいだろう、知った時の情景もはっきり記憶している。あれは昭和32年、小学校4年生の秋のことだった。僕は親戚の持ち分である山の畑で、その家の母親と5歳僕より年上の娘と一緒に、小豆(アズキ)の穫り入れを手伝って働いていた。
その午後の一休みの時だった。何の拍子か、中学生の娘が、東京にはテレビというものがあり、それには絵が映るのだと言った。
まさか、と思った。そんなものがある訳がない。僕をからかっているのだとさえ一瞬思った。僕は「テレビ」という名前すらも、その時初めて知ったのだった。英語はまったく知らないから、テレビ、という意味がまったく不可解で、ヘンな呼び名だなあと思うばかりであった。
僕は、信じられない、ウソだろう、ということを繰り返し言った。しかし相手は、これは本当の話だ、東京ではもう実際に放送しているのだ、と熱を込めて語り続けるのであった。その話しっぷりから、これはどうやら本当のことらしいと思うようになっていった。そもそもその親戚の母と娘は、冗談を言うような性格ではなかった。
ラジオから音が聞こえるということさえ僕には不思議だった。何度ラジオの裏から、箱の中に林立する真空管をじっと見つめたか分からない。僕の遊び仲間には音を保存しようとラジオを風呂敷に包んだやつさえいた。ましてや絵が映るなどということが想像できるだろうか。その仕組みがまったく分からない。
余談だが、この日、僕はもう一つ重要なことを知った。それは母娘が弁当を包んできた芸能雑誌の切れ端に書かれていたことだ。来年、長嶋という新人が巨人に入団することに決まったという記事である。弁当というのは、面桶(めんつ)と呼ばれる木製の曲げワッパだった。
僕はこの時初めて「長嶋茂雄」という名前を知ったのである。兄が巨人を好きで、川上とか別所というスター選手の名をよく言っていたので、僕もこの頃漠然と野球に関心をもち始めていた。その意味では、この日はまさに、その後野球少年となった僕の出発の日であった。僕にも、長嶋のようなプロ野球選手になることを夢見て練習に明け暮れた日々があった。
長嶋が巨人に入団したのは昭和33年のこと、それで山の畑でテレビの存在を初めて知った年もはっきりと分かるのである。
誰にも、多くの日々の中で、特に忘れがたい一日があるだろう。テレビと長嶋を知った、紅葉に染まった山畑の秋の一日。あれは僕にとって「人生の一日」とでも呼ぶべき特別な一日であったような気がしている。
おそらくこのような驚きの体験は誰にもあるのではないか。今は当然のものとして日常接しているが、出たばかりの頃は神秘と驚きに満ち満ちたもの。いや、この世はそういうものに満ち溢れていると言っていいかもしれない。
例えばコロンビアのノーベル賞作家ガルシア・マルケス(1928~2014)は、名作『百年の孤独』で、その二つの事例を書いていた。一つは、氷である。熱帯のインディオが、初めて氷に触れた時の驚きを想像してみていただきたい。あの冷たい塊がやがて溶けて水に変容していく。そもそもどのようにして氷は出来たのか。それはまさに神のなせる業、奇跡と映ったに違いない。
もう一つマルケスが例にあげているのは、磁石である。鉄分を吸いつける、あの磁石だ。僕も子供の頃、U字型の磁石を宝として持ち歩き、釘や画鋲を吸いつけたり、砂の中に突っ込んで砂鉄をくっつけたりして遊んでいた。当時は普通にオモチャ屋や文房具屋で売られていたものだ。同じ磁石でも、古いラジオから取り外した磁石は大きく強力なので、子供にはたいへんな宝物であった。
我々は当然と思っているが、南米の未開のインディオにとって、氷と磁石は驚天動地のものだったはずである。
僕のテレビも、インディオの驚きに近いものがあった。
翌年、僕が小学校5年の時である。ある日、飯山の町から山本電気屋のおやじさんが我が家にやってきて、母屋の茅葺き屋根にハシゴをかけ、いちばん高いグシ(大棟)に登っていった。初めて村でテレビが映る日だ。庭には村中のガキどもが群れて、電気屋の一挙手一投足を見守っている。やがて電気屋は、屋根の端っこに、羽が何枚もついたトンボのようなアンテナを取り付けた。当時はアナログであるから電波を受けてテレビが映るのである。電気屋の話では、けわしい山々に囲まれているので、どの程度映るかはやってみないと分からないという。
いよいよテレビにスイッチが入った。昔のテレビは、映るまでしばらく時間がかかった。息をころす思いで見守っていると、画面がちらちらと明るくなり、なにやら動くものが見えた。しかしガーガー音がするばかりで、何が何やら分からない。これが僕の村で映った最初のテレビ画像であった。電気屋はアンテナの方角を直しにまた屋根に登っていった。
映るには映ったが、これは何といおう、ちらちらと雨が降るような画面の中に、何かの影が動くといった程度の代物であった。それでも村衆がどっとテレビの前に集まり、夢中になって野球や歌番組を見たのであった。目が疲れ、頭が痛くなった。
電気屋は僕の家に二ヶ月ほどテレビをおいて自由に見させていたが、夏休みが明けると引き取っていった。おそらく試しに置いてはみたものの、映り具合からして、とても売り物にならないと考えたのだろう。
テレビが村の家々に入るようになったのは、電波事情もよくなった昭和30年代後半、僕が中学を卒業して家を出る頃である。
デジタルの時代となった今、テレビを辿ると時代の変遷がよく見えてくる。明治8年、慶應義塾の創立者・福沢諭吉は『文明論之概略』の緒言で次のように述べていた。
あたかも一身にして二生を経るが如く 一人にして両身あるが如し
(一つの体で二つの人生を生きた思いだ。一人でありながら二つの体をもって生きた心地がする)
福沢が生きた時代は、幕末から明治維新と、世の中の仕組みが全てにおいて激変転倒した時代である。過去を振り返った時、まさに夢の中を生きた心地がしたに違いない。
自分が生きた時代の転変の激しさを振り返ると、僕もまったく同じ思いだ。
テレビの出現にびっくりした頃を思い出すと、三つも四つも時代を生きた気がする。引き裂かれた感覚が湧くとともに、茫々たる思いに包まれるのである。