高橋まゆみ・郷里の人形作家

 

更新日:2014年12月8日

作家 丸山修身

 

 先月、11月25日、26日の二日間にわたり、NHKラジオ深夜便に「創作人形、出会い旅」というキャッチコピーで、高橋まゆみさんが登場した。10月に放送されたものの再放送という。

 高橋まゆみーこの名をみなさん、ご存知だろうか。ご存知ない方はネットで検索してみていただきたい。昔なつかしい田舎のじいさんばあさん、そして孫、ひ孫と思(おぼ)しき幼い子供たちが、ほのぼのとした、いかにも幸せそうな出立(いでたち)で立ち現れるから。

 ある程度の年配の方なら、ああ、こういう年寄りはたしかに身近にいた、としびれるような懐かしさで思い浮かべることだろう。


 高橋まゆみさんは、僕の郷里、北信濃・飯山在住の人形作家である。その経歴を簡単に紹介する。昭和三十一年、長野市生まれ。長野市立三陽中学卒というから、長野市の東部郊外、田んぼが広がる地域である。僕は高校時代、この地に下宿して高校に通っていた。

 長野市の短大を卒業後、通信教育で人形づくりを学んだという。それが約30キロ北方の飯山に住むようになった訳は、結婚した相手が飯山在住だったからである。飯山市の常盤(ときわ)地区と聞いているから、市の中心から千曲川沿いに4キロほど北に下った、純農村地帯である。僕は小学校の時、ここの常盤小学校に合唱大会で何度か行ったことがある。平地がない山奥の村から出ていって、一面に平らな田んぼが広がっていたことが、とても羨ましかったことをよく憶えている。


 飯山は島崎藤村の名作『破戒』の舞台となった町だ。小説で主人公・瀬川丑松が下宿していた「蓮華寺」は、飯山駅のすぐ近くに建つ真宗寺(浄土真宗本願寺派)である。「ここの住職は女癖が良くない」というようなことを書いたために、真宗寺では藤村を良く言わないそうだが、その真偽のほどは知らない。

 真宗寺の娘達は美人で有名で、戦前には「ミス上海」を出している。また唱歌『故郷(ふるさと)』や、『朧月夜(おぼろづきよ』、『もみじ』、『春の小川』などの名曲を作詞した高野辰之は隣の旧豊田村(現在は中野市)の出身で、妻はここの真宗寺の娘であった。


 平成22年(2010)、JR飯山線・北飯山駅の近くに、「高橋まゆみ人形館」が開館した。この辺りは仏壇店が建ち並ぶ地域であり、またお寺が非常に多い街である。「雪国の小京都」、と地元では喧伝しているが、これはたいへんな背伸びというべきで、とても京都と比べられるような街ではない。僕がいた頃は市の人口は4万人程度だったが、今は2万人をちょっとこえる程度、ほぼ半減している。

 来年3月、北陸新幹線が金沢まで延伸するのに伴い、飯山駅にも一部新幹線が停車することになった。地元では盛んに観光宣伝をやっているが、そんなものに期待すると大やけどすること必定である。田舎の小さなお寺なんぞ、若い人が喜んで見るものか。そんなことより、地道な産業、農産物を育てることだ。例えば、近在で盛んなエノキダケ栽培のような。


 そんな過疎の貧乏市にあって、高橋まゆみ人形館は、唯一輝きを放って人を呼んでいる。僕が飯山に行った時も、人形館には大型の観光バスが何台もやってきていた。館内の人を見渡すと、その多くは50歳以上と思われる女性であった。

 僕もここで創作人形を見たし、また諏訪の原田泰治美術館、東京両国の江戸東京博物館でも見た。東京では高橋さんと直接会って挨拶を交わしている。僕が、さん、付けで書く所以(ゆえん)である。高橋まゆみ、と呼び捨てでは、どうも気持ちがしっくりとなじまないのだ。

 高橋さんが題材にとるのは、幸せに老いた百姓のじいさんばあさんである。例えば、並んで丸太ん棒に腰をかけ、目を細めている笠をかぶった野良着の老夫婦。孫だかひ孫だかを、腰を曲げておぶっているおじいさん。幼な児を自転車にのせて野道をいくおじいさん。子守をしている赤ん坊が泣き止まないのだろう、胸元をはだけてしなびた乳房を与えているおばあさん。これには『涸れた乳房』とタイトルがついている。こんな光景は、僕も確かに幼い頃に見た。

 また、息子の嫁とケンカをしたのだろう、鍋と傘を背負い、けわしい眼差しで家出をくわだてるおばあさんもいる。黒柳徹子が「徹子の部屋」でこの人形を目に前に見て、そのあまりのリアルさに、番組に出演した高橋さん相手に笑っていた。


 僕はこれらの人形を見ていて、深い雪の中の暮らしを思い出す。痛い程に顔面に細かい雪粒が打ちつける、猛吹雪の朝。そして、すさまじいまでの春の芽吹きの瑞々しさ。うっとり息を飲む秋の紅葉の鮮烈さ。そして葉が散り、ススキの穂が冷たい雨を吸って重そうに頭を垂れる、晩秋の身を切るようなさびしさ。もうすぐ長い冬がくる。それは一切の生命が衰えていくかのようだった。

 そんなくっきりした四季の移ろいの中で、長いこと百姓として生きてきた老人達。―手ぬぐいの頬被りの仕方、そこからほつれ出ている白髪の様子、絶妙な腰の曲がり具合、ふくら雀みたいに着ぶくれした姿、おだやかな丸顔。それらの人形が細い目で、いかにも幸せそうに微笑んでいる。

 おそらく人は、こういう人形を見て心が癒されるのだろう。しかし僕は一方で思うのだ。こんな幸せはあるだろうか、と。おそらくこんな幸福そのものの人生は存在しない。過去になかったし、現在も存在しない。そういう意味で、この世界は、結局、高橋さんがこうあってほしいと願う一つの夢である。それは諏訪湖畔に美術館が建つ原田泰治の絵でも同じだ。


 原田泰治については、多くの方がご存知のことだろう。簡単に紹介すると、1980年代に朝日新聞日曜版に、素朴な心温まる絵を連載したことで、広く全国にその名を知られた。

 昭和十五年(1940)、長野県南部、旧伊賀良(いがら)村(合併により現在は飯田市)に生まれる。小児麻痺により、両足が不自由である。父親は山の上に入植した開拓農民であった。田んぼの水の確保に苦しみ、自分一人でトンネルを掘って田んぼに導水したというから、大変な苦労である。諏訪市で育ち、諏訪実業高校卒業後、武蔵野美術大学に進んでいる。

 原田泰治美術館も鑑賞者が多い。―茅葺き屋根の家。澄んだ小川に、野の花々。縁側にならぶおひな様。日向ぼっこをする猫。のどかな鯉のぼり。茶摘みにキノコ採り。遠く残雪の山々を仰ぐ、桃畑での食事。今は喪われてしまった懐かしい風景が、これでもかとばかり描かれる。

 これも結局は原田泰治が見た夢である。こんな幸せ一辺倒の暮らしは過去にもなかった。人の暮らしがあれば、必ず苦しみや悲しみが伴うものだ。


 高橋まゆみさんや原田泰治の作品を前に、人はいっときの夢を見る。ここに人気の秘密がある。

 先日のラジオ深夜便で高橋さんは、これからは認知症などの難しい問題も人形づくりに取り入れてみたいと語っていた。どんな新しい世界が高橋さんの創作人形にひらけるか、僕は今から楽しみにしている。