我が恩師

更新日:2013年6月1日

作家 丸山修身

 宮川浩夫先生、といってもほとんどの人は知らないだろう。そのはずである。僕が小学校の時に教わった、担任の名前なのだから。

 長野県の北端に、野尻湖という観光避暑地があることを、みなさんもご存知だろう。その湖に琵琶島という小島があり、神社が建っている。先生はそこの宇賀神社の宮司の息子であった。しかし神官くささとは全く対照的な先生だった。

 この5月3日、駒沢大学吹奏楽部の学生が、合宿中に琵琶島から湖水に飛び込み、男女二人が死亡するという事件が起きた。この季節に野尻湖に飛び込むなど、北信濃の水の冷たさを知る僕からすれば、ほとんど常軌を逸している。


 さて宮川先生だが、先生は信州大学教育学部を卒業、最初の二年間を飯山小学校で勤務され、その次に、新潟県と県境と接する、僕たちの山奥の小さな小学校に赴任してこられた。 山国の長野県は僻地が多いので、先生たるもの、誰もが教師人生のうちで一度は僻地校に勤務しなければならない、という教育界の不文律のようなものがあった。若い独身のうちにこの義務を果たしてしまおうと考えるのだろうか、僕たちの小学校には、卒業したばかりの、学生気分の残るほやほや教師が大変多かった。宮川先生もそんな若さにあふれた青年教師であった。

 人は子供の頃教えを受けた先生の影響で、人生を大きく左右されることがある。僕にとって、宮川先生はまさにそういう人であった。今回はその人となりを語りたい。


 宮川先生には五年生と六年生の二年間教えを受けた。今振り返って、この二年は、僕のそれまでのものの考え方をほとんど覆すかのような重要な意味をもっていた。先生は美術、音楽など芸術活動にたいへん熱心で、美術(当時は「図画」といったが)の最初の授業で、「絵とはそっくり真似て写すのではない。それは写真だ。そうではなくて、ものをよく見て、心に映ることをそのままを描くのだ。だから、似ていなくてもまったくかまわない。むしろ、その方が正しい」と話した。

 この教えは、絵とは対象をそっくりに似せて描くものだと思い込んでいた僕に、革命的ともいえる驚きをもたらした。こういう考え方もあるのか、と新鮮な感動にふるえる思いであった。

 先生が推し進めたのは「自由画」運動であった。おそらくこの背後には信濃教育の伝統があった。長野県は「教育県」だと言われていて、例えば佐久出身の作家・井出孫六氏は次のように書いている。

  「信州は日本の屋根にたとえられる。……そこに住む人間は、屋根裏の住人

  とでもいったらよいか。高い小窓から、何とか外界の知識をとりいれたいと

  望んでいる。信州が教育県と呼ばれるゆえんにちがいない」 

    (『山の貌』 新樹社刊)

 ここでいう教育県とは、有名大学の合格者数を競うようなものでは全くない。そんなものは馬鹿げている。そうではなく、理想を高くかかげ、自由を重んじ、生徒の個性を大切にする教育、とでも呼んだらいいか。

 が、これは戦前の話で、現在は長野県の教育にすぐれた特徴など全くない。これは僕が証言にたつ。


 ただ戦後も、大正デモクラシーの理想主義、自由教育の伝統は残っていて、宮川先生はその残り香を濃密に受け継いでいた。音楽教育にも大変熱心であったし、作文指導も盛んに行った。新聞紙で指人形をつくって人形劇をやったし、山から自分たちで山芋を掘り、芋汁をつくって校内キャンプをやったこともある。教室から外に飛び出し、実践を通して教えようとする傾向が強かった。これが子供達にとって楽しくない訳がない。

 教育の原点は生の人間である。最も機械化しにくい分野なのだ。例えば、或る先生を好きになれば、その教科も好きになり、成績も向上するではないか。僕は宮川先生を思い出すたび、そんなことを考える。


 この宮川浩夫先生に関し、僕がずっと理解が出来なかったことが一つあった。その疑問というのは、先生の次の転任先が、飯田市立竜丘(たつおか)小学校だったことである。飯山の外れから飯田の南部へ。これは南北に長い長野県の、ほとんど北端から南端への大移動である。これがどれ程の距離にあたるか、僕は地図でざっと調べてみた。東北に当てはめると、福島市から、宮城県全域を飛び越え、世界遺産・岩手県の平泉まで達する。こんな転任の仕方をした先生は、僕は宮川先生以外に知らないのだ。

 その疑問が最近一気に氷解したので、最後にそのことについて書く。

 飯田の竜丘小学校―それは自由画教育において、歴史に名を残す学校だったのである。大正の初め、ここに木下紫水という有名な教師がいた。木下は、絵というものは模写が目的ではなく、現物を見て、感じたことを素直に描くものだ、ということを熱心に教えたのである。生徒を中心に考え、自由を重んじ、絵を通じて個性を伸ばすことを教育の目的としたのだった。その教えが脈々と宮川先生まで流れ込んでいたのだ。

 先生は理想に燃えて、はるばる竜丘小学校まで赴任されたに違いない。天竜川が流れる伊那谷は、大正デモクラシーの理想が高く燃えた地である。その背景には、明治末に飯田地方に広がった、メソジスト派のキリスト教信仰があった。


 宮川先生は数年前に亡くなられた。僕は先日、竜丘小学校の現状を知りたくて、学校に電話を入れた。宮川先生に触れると、たいへん喜ばれた。今も自由画室という部屋があり、大正時代の生徒の絵が展示されているとのことだった。

 それを聞き、僕は近いうちに飯田の地に竜丘小学校を訪ねようと思い決めた。そして天竜河畔に佇み、恩師・宮川浩夫先生を偲(しの)びたいと考えている。