下館和巳
第八幕
「観客の心と体を動かす」
プロフィール
1955年、塩竃市生まれ。
国際基督教大学・大学院
卒業。英国留学を経て東
北学院大学教養学部教
授。比較演劇選考。シェ
イクスピア・カンパニー
主宰
立ち見というものがあるが、これは普通、舞台から最も離れたところから立って芝
居を見ることをさす。しかし、ロンドンの新グローブ座の立ち見はちょっと遣う。
なぜかといえば、舞台の前は座席も何もない平土間だから、立ち見客は舞台に最も
近いところで見られるからである。
劇場の形はちょうど風呂桶のようだ。 桶の縁の部分は3階建てになっていて、桶
の底には突き出た横長の舞台を遠巻きにするかのように座席が並んでいる。そして、
桶の底の地べたには立ち見客(グラウンドリンクと呼ばれる)のための平土間があ
る。私は、この劇場に行く度にいろんな位置から芝居を見るが、グラウンドリング
になるのがどうやら一番面白いというのが最近わかった。それは、役者とコミュニ
ケーションができるからだ。
半屋外の舞台だから、人工照明というものがない。そのために、役者には目の前
の観客の顔がよ-く見えて、観客と役者の間のコンタクトが容易なのだ。
ある日の昼下がり、「ヴェローナの二紳士」という喜劇を上演していたときのこ
とである。ヒーローの男優がヒロインの女優と指輪の交換をした。女優が「この契
約にキッスで封印を」と言うと、男優はためらった。 すると、男優のすぐ足元に
立つ観客のひとりが「ほら早く、キッスだ!」と促す。するとその観客の声はたち
まち平土間全体に広がって、百数十人の大コーラスになった。男優は、その声に応
えるようにキッスをする。と、たちまち大歓声が上がった。
私は、これがシェイクスピア時代の観客なんだなぁ、と感動する。もし、みんな
座っていたとしたらこうはいかない。感情が理性に抑えられ、オショシイ気持ちか
ら抜けられなくて黙ったままだろう。が、青空の下で足の裏に地べたを感じている
と、なんだか気持ちが開いて、心がワサワサと動きだす。踊るノッツォに見るノッ
ツォ…。舞台の上の芝居の世界を、身を引いて見ているというよりは、私たちも役
者のひとりのような錯覚を覚えてなんとも不思議な気分になる。
観客が声をかければ、その声に役者が反応し、芝居が微妙に変化する、というの
は観客にとってオイシイ経験だ。その日の芝居を役者と一緒に作っているという実
感があるからだ。それにしても、こういう芝居を作るには、役者に大変な力量がい
るんだよな、としみじみ思う。
ちなみに、この芝居は観客の反応を吸って予定時間を80分もオーバーしたそうで
ある。
(つづく)
朝日ウィル 1999年10月12日号より