下館和巳
第九幕
「えもいわれぬ一瞬」

プロフィール

1955年、塩竃市生まれ。

国際基督教大学・大学院

卒業。英国留学を経て東

北学院大学教養学部教

授。比較演劇選考。シェ

イクスピア・カンパニー

主宰


芝居はなまものである。いつまでもとっておけないし、残せない。だから寂しい、
だからいい。魅力的な役者たちとおんなじ場でおんなじ時間を共に生きている、と
いう感じが芝居の醍醐味のひとつかもしれない。今回は忘れがたい思い出の一瞬の
話をしよう。
 1998年の初秋のことだ。私は「オセロ」を見るために新橋演舞場にいた。席は幸
運にも最前列の中央だった。俳優陣は、北大路欣也のオセロ、中村勘九郎のイアゴ
ー、遥くららのデズデモーナとくればちょっと心が動く。案の定、劇場は立ち見が
出るほどの盛況ぶりで、私もホケホケしながら幕開きを待っていた。                  
 芝居が始まると間もなく、「オセロ」に殊のほか思い入れの強かった私は、勘九
郎のイアゴーはユーモラスだが魔性味に欠けるな、北大路のオセロは嫉妬に狂って
もさっぱり野卑さがなくて妙に品が良すぎる、テンポがノッタリクッタリしてて眠
ぐなる…、などとひとりごつっているうちに劇のクライマックスを迎えた。デズデ
モーナが嫋嫋と「柳のうた」を歌っている。ああ、きれいだなあ。と、私は思わず
インピンかだりをしばし忘れて、テロッとして舞台を見上げていた。                         
 すると、突然誰かが「くらら…」と言う声が聞こえた。 それは、大向こうの「音
羽屋ッ!」とか「成駒屋ッ!」とかいうような、スパッとしたいなせなかけ声では
なくて、まるで病の床に伏す父親が娘に対するようなやさしい声だった。遥くらら
の表情と声が揺らぎ、遠くを見つめていた被女の視線が、その声の主を探るように
動いて足下にいた私のところで止まった。                                  
 そして、遥くららの鋭い目が私をとらえた。私はドキーンとして、心臓がアバラ
ボネをどんがらどんがら打つ音が聞こえるようだった。その瞬間、私は「僕じゃな
いですよ」と言わんばかりに、唇をキッと結んで首を横に握った。と、次の瞬間、
「くらら…」と言う普通の酔っ払いの声が響いた。犯人は、私の左隣の初老の紳士
だった。彼女の視線は私から離れてその紳士に移ると、もう一度私に目を移して柔
らかく微笑んだ。私はホッとして
「だから言ったじゃないですか」という笑みを返した。               
 すべて、ほんの一瞬の出来事である。 客席は何もなかったように静まり返って
いたが、私は遥くららとデズデモーナの間をのぞいてしまったようなえもいわれぬ
気持ちだった。この紳士はこの後スヤスヤ眠ってしまったが、私はめまいのするよ
うな一瞬をくれたこの紳士に少し感謝した。                              
                                    (つづく)

朝日ウィル 1999年10月19日号より